本日、いろいろと揉め事を起こしていたおじが亡くなった。この人は、親父の兄貴なのだが放蕩していた挙句、ある日我が家にやってきて数年間に渡って住み着くなどということを起こし、その後、何とかしてアパートを借りてあげ仕事の斡旋もしのだが、毎日酒を飲むは借金はこさえるはと非常に困ったちゃんだったのである。(とはいえ、幼かった私にとっては、自分勝手だが面白いおじさんだなあとしか思っていなかったし、思い出せば私がギャンブルに向いてないことも教えてくれたわけで個人的な恨みはない)
なんでこんな話を始めたかと言うと、私は「死というものは悲しいものではない」と常々思っていることと関係がある。世間は、死というものを余りにも不幸だとか悲惨だとかというものと結び付けすぎではないか。確かに、今後有望な人が亡くなるとか、まだまだ若い人が事故で亡くなるというのは悲しいものである。だが、今後生き続けたからからといって新たな何かが起こるわけでもなく自分の人生をまっとうできた人にとって死は恐れるべきものなのだろうか。
おじは、晩年お酒に溺れ、歳を取り過ぎて働くことも満足にできない状態にいた。現実問題としておじに将来の展望たるものは何もなかったであろう。また、私の両親にとっても厄介ごとだと思っていたと同時に親族の生活は心配の対象でもあった。
いろいろあった。いろいろあったが、死というひとつの節目によって、おじも両親もどうしようもないまでに絡み付いていたしがらみから解放され自由になったのではないかと思っている。死というものは忌避すべき対象ではなくひとつの浄化装置としても成立するのである。



一週間強かけて話題の「環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態」をやっと読み終わる。読み終わった感想としてはよくもまあこんないい加減なデータがいままで罷り通ってたもんだとほとほと呆れた。てゆうか、ロンボルグが書くまで誰も気付かなかったわけ? やっぱり世の常識というものは信用できんもんだなあ。
内容的には、とりあえず絶対に読むべき。ただ、読むべきなのは間違いないが、一冊の読み物として見た場合には非常に辛い本でもある。なんせかんせ基本的な構成は、まず環境保護者たちが「〜という問題が起こっている」と主張する。で、ロンボルグがその主張をデータを非常に丹念に延々と検証していくというものだからだ。ただ、その分信頼は置ける本ではある。まあ、辞書代わりのつもりで一冊買っとけということで。
【追加】個人的には、今回の山形訳はいまいち。特に第一章、第二章の文の繋がりが非常に悪いし、日本語として意味の取れない文もちらほらとある。それと、いつも思うんだけど山形浩生と同じ年代の人ってみんな「ぼく」って言ってるのかなあ? 単に山形浩生の周りにいる人の気が若いだけだという可能性はないのかなあ。