祝、京極堂シリーズ復活! 京極夏彦陰摩羅鬼の瑕」を読む。ここ数年、京極夏彦はスランプだったに違いないと私は思っている。仕事量は増えてるしやたらと色々なところに顔を出すが、作品を読むと我を忘れているんじゃないかと思うことが多々あったからだ。厚い本を出さなきゃならないというプレッシャーとか、頼まれた仕事を断れないとか、たぶんそういうことがあったのではないかと個人的には想像しているが、まあ、ようするに煮詰らない話ばかり書いている印象を私が受けていたというだけのことだ。
で、今作ひさびさの本筋シリーズ続巻である。不安な気持ちを持ちながら読み始めたわけだが、今作は初期京極作品(←と呼ぶにはまだ早すぎる気もするが……)へ戻ったかのような安心感ある作品に仕上がっている。講釈部分はひたすら面白いし、話としての完成度も高い。……ただ、惜しむらくは本の四分の一を読んだ段階で犯人がバレバレになってしまうということだろう。犯行理由の論理展開は見事というほかは無いが、犯人がこんなに簡単に判ってしまっては興醒めしてしまう。この本の内容をもっと常識的に考えるなら一回目の事件の段階で犯人が捕まって終わってしまうに違いない。もう一工夫あれば何とかなったような気もするけれど。



まえまえから感じていたのだが余りにもおこがましいので公言するのは憚られるが、私という人間の感性と京極夏彦の感性は非常に近いのではないかと思っている。むしろ、近すぎるくらいに。絵描きでかつ妖怪好きといったこともあるのかもしれないが、本作でも死生観の説明や宗教についての考え方などまったく同じ事を考えていたりして、他人の作品を読んでいる気がしない時がある。
本来なら、京極夏彦という売れっ子作家と同じ感性を持っているというのは誇るべきことのようにも思えるが、ひとつだけ大きく違うのは京極夏彦が私より遥かに才能があり、私が考えていることをより説得力のある形で提示できているということである。まさにアイデンティティーの崩壊である。今のところ、京極に勝っていそうなのはプログラミングと経済学の知識だけだが、どちらも私の専売特許ではないというのが非常に痛い。所詮凡人は能ある人を支えるために金を差し出す(=本を買う)のみということか。