今話題の「華氏911」を見る。前作の「ボーリング・フォー・コロンバイン」や「アホでマヌケなアメリカ白人」などを読む限り、マイケル・ムーアという人は割と冗談好きの皮肉屋だと思っていたのだが、今作ではあまり笑える部分が少なく証拠提出を元にしたブッシュ批判に終始している。もしかして、本気で腹をたててる?
この映画をプロパガンダ映画だからダメだと批判する人がいるが、そもそもドキュメンタリーというのはプロパガンダである。プロパガンダではないドキュメンタリーなんてものが存在するわけがない。ただの車窓風景を撮影した映像でさえ「車窓風景はきれいでしょ」という意図において撮影されている。人が何らかの意図をもってカメラを覗けば、そこに切り取られたカットには(政治的であるかは別として)必ず意図が含まれる。
そういえば、東谷の「エコノミストは信用できるか」に批判を加えた際、私はこの本が良書であることを強調したのだが、それには上記と同様の観点からの評価が含まれている。件の本は、私が考えるに「エコノミストは信用できない」という主張をするために様々な事実を並べたプロパガンダ・ノンフィクションである。たしかに経済学的には問題のある見方をしているわけだが、それは事実を捻じ曲げているのとは違う。そしてプロパガンダ作品としてみた場合、極めて良く書けているし、インフレ目標策を疑問視したのも当然である(インフレ目標策を肯定するならば、すべてのエコノミストが信用できないわけではないことになってしまい、本書の主張に沿わなくなってしまう)。
もし、何らかの主張なしに事実を羅列したものがあるとすれば、それは単なる映像の羅列であって、ドキュメンタリー以前に作品とは呼べないものになってしまうだろう。プロパガンダでない「華氏911」とはどういう作品なのか。「華氏911」がプロパガンダ映画であると批判する人は、自分が何を言っているのか理解していないだけだ。
ただ、物事を公平に眺めたいと思うものにとってドキュメンタリーを眉に唾をつけてみることは重要であろう。まず、映像自身に改竄があるか否かだが、それはムーア自身が映像やデータ自体はすべて事実であるし、そうあるように気を付けたと明言している。嘘は即この映画の信憑性を疑われるわけだから、これは当然であろう(とはいえ、疑うに越したことはない。ここではその詳細の事実関係について追跡するつもりも用意もまったくないが、続報を見逃さないよう気を付けるべきだ)。この手の映像ドキュメンタリーで良く言われるのは、「何が映っているかではなく、何が映っていないかを見よ」ということだ。例えば、批判されている内容は政界では当たり前の行為だった、あるいは、デメリットだけでなくメリットもあるということだったりだ。たぶん、このようなテクニックは当然使われているだろう。
とはいえ、「テロに即座に対応できなかった」り「ラディンの家族を逃したり」、「テロ対策予算を削ったり」しているのはまぎれもない事実だ。宮崎哲弥も指摘するように、ブッシュが自ら「戦争大統領」と名乗りながら適切な戦争終結ができなかったことも事実だ。これほど長い間がを立っているにも関わらずテロとイラクの関係も大量破壊兵器の存在も明らかにされていないのもやはり事実だ。その点に関しては疑う余地はないように私には思える。



世の知識人は、公平であることを良いことのように考えているようである。だが、インフレ率0%を目指す金融政策が極めて引き締め気味であるように、一見公平さを装った主張はしばしば事実を捻じ曲げる。公平に見た結果、北朝鮮拉致問題は存在しないこととして処理され被害者家族はむしろ迫害された。アメリカでは服役囚の待遇が改善される一方、低所得者の待遇は低下している。アル・ゴアが軽薄な政治家だからといってブッシュが正しいことをしている理由にはならないし、小泉総理や速水前日銀総裁が信念の人だからといってその政策を正当化する理由にはならない。