私は差別用語が大好きである。と、書くと人によっては私が差別主義者だと思われるかもしれないのだが、まあそれはその人が差別をどのように定義するかによるだろうか。
まず、私が差別用語の使用を好ましく思っている理由であるが、それは以下のとおりである。

  1. 恐怖に怯えた人間がとっさに言ってしまう差別用語(特にキチガイ)は、その精神状態の表現として自然であり作品を作る上でその使用は重要である。
  2. 過去において現在差別用語と呼ばれているものは日常語であり、すべてのメディアでその使用を事実上禁止されている現状は事実の歪曲、過去の封殺につながる。特に市民から古い作品を見るという権利が事実上奪われいるのは許しがたい。
  3. 差別用語の持つ後ろ暗い雰囲気が私は好きだ(^^;

通常は、これの他に言論の自由に反するという意見が入るが、特にここでは取り上げない。まあ、私は上記を理由に差別用語の使用自由化を推進したいわけだが、納得しない人も多いはずなので、ここでは「差別語善玉論」をとりあえずぶち上げてみたい。
ここで取り上げる対象は「目暗」だけである。差別語の定義は放送局や新聞社などによって異なるし、これは代表的な用語であるので適切だと思う。
まず、私が高校時代に出会った出来事から聞いていただきたい。
私の高校は所謂進学校という奴だったのだが、何を思い立ったのか、ある日学年全員を「目暗ミュージシャンコンサート」みたいなものに招待したのである。まあ実体は招待ではなく強制なのだが、まあ連行されたわけである。コンサート自体は非常につまらなく盲目のおっさんが盲導犬を連れギターを弾きながら歌うというものであった。たぶん、視覚障害者の支援目的なのだろうしそれ自体は社会的に意義のある行為だ。問題なのは、その最中にそのおっさんが話したエピソードの方である(もちろん私の記憶に頼っているので話は正確ではないが、大筋はまちがってないはずだ)。
「道を盲導犬と歩いていたら、その道路が工事の最中で私は非常に困っていたのです。でも、誰も助けてくれませんのでおろおろしていました。そうしたら、親切な工事現場の主任らしき人が『目暗の人が困ってるじゃないか。とうしてあげなさい』と助けてくれたのです。でも、私は悲しくなりました。彼は目暗といったのです。差別はいつになったらなくなるのでしょうか」
ハァ?と思わないか。これ本当だぞ。本当にこんな話をしたんだぞ、そのおっさんは。工事現場のおっさんは親切心で助けたんだぞ。いいやつじゃないか。なのにその言葉に「目暗」という言葉が含まれていただけで差別主義者扱いだ。酷い話だと思わないか。
だが、このエピソードそのものによって盲目の人すべてを貶めようというつもりはさらさらない。私が言いたいのは「目暗」なる言葉は別に良くも悪くもないということだ。証拠:目暗将棋。目暗将棋をするのは将棋の達人であって差別の対象ではない(月下の棋士を読んでると、将棋の達人=生活不適格者のように思えてしまうかもしれないが、ここでは問題としない)。その言葉は「手探りの状態=目が見えない」という比喩である。そもそも目暗という言葉自体が比喩的だ。盲目の人に目が暗いという身体的特徴があるわけではない。「目をつぶると暗闇になる」ということから盲目の人を暗示する言葉になっているわけでトリッキーでかつ文化的な言葉である。視覚障害者が「視覚」に「障る害」がある者となっているのとは対照的だ。
そもそも、なぜ差別が生まれたのかを考えて見よう。体に障害を持つという状況は著しい不便を生じる。それによって周りには煩わしさが生じるし、そうはなりたくないという思いが発生する。またホラー映画を見たときに体の一部が切断されたことに対して嫌悪感を持つのと同様にやはりそういう外観を持つ人には生理的に嫌悪感を持つ場合もある(少なくとも私はそうだ)。この場合、差別されるのは差別される側の問題である。そして、その差別される対象が「目暗」と呼ばれていたから「目暗」が差別用語になってしまったのである。すなわち「目暗」は悪くないのである。「差別語善玉論」おわり。



ここからは補足。
このように考えていくと「目暗」という用語を隠すことによっても(差別の対象がなくなったわけではないから)差別が無くなるわけではないことがわかる。いじめが表から裏へと隠れていったのと同様に、障害者に対する差別も裏へと隠れ陰湿化する可能性がある。近年、問題になっている障害者施設でのいじめ行為はその一例である。
実は、上で差別語を擁護しておきながらなんなのだが、差別語使用の禁止運動は意義のあることだったと思っている。それは、行き過ぎた面があったが故にフェミニズム運動同様、人々の間に情報が知れ渡り「差別が行われている」という現状を認知させたからだ。だが、今はどうだろうか。すでに日本に存在する主な情報源、テレビ、新聞、書籍では差別語の使用は厳禁である(百姓ですら駄目なところもある)。我々の耳に差別語が届くことはもはやない。これでは差別の周知にはまったく繋がらない。ただ言論の自由を奪っているだけである。ここら辺で、少し強行でも差別語善玉論を打ち上げておくべきではないだろうか。そう私は思っている。

さらに補足。
私は、障害者に嫌悪感を持っても悪意を持つつもりはありません。むしろ、国はもっと障害者に手厚い措置を考えるべきだと思っとります。だって、私自身明日にでも事故にあって障害者にならないという保証はないわけだもの。
今の時代、普通の人は暮らしに全く困らないのだから、むしろ「もしも」の時の安心が欲しい。地震、雷、火事、親父、どれをとってもこの国は助けてくれないからな。せいぜいゴジラが来たとき自衛隊を出すくらいか(「長官、自衛隊出撃許可を」「現在、首相はゴルフ中だ。命令は出せない」とかだったらイヤ〜ン)。

さらにさらに補足。
今日の日記まじめすぎ。次からは山形浩生みたいな文体になるようがんばろう(って方向がちがうだろ)。

Topページにアイコンをつけてみる。何か違和感がある気がするが、まあいいか。例によって権利関係で文句をいうつもりはないので自由に使ってください。32×32なら結構自由度があるが16×16だと結構厳しいものがありますなあ。今の高解像度ディスプレイだと小さすぎて何が書いてあるのかすらわからないかもしれない。少なくとも文字は書けなくもないが書いても認識できないレベルでした。