というわけで昨日の続きである。
安斎育郎著「霊はあるか」の「第一章 霊に惑わされる人々」では、明覚寺グループの霊視詐欺商法事件をはじめとする心霊詐欺事件を例にあげ、なぜ人間はさしたる根拠もなく「霊」を信じ、「霊障」に脅え、挙げ句の果てに怪しげな加持祈祷にすがりつこうとしてしまうのだろうか。霊に心傾ける心のありようを克服しなければ、第二、第三の本覚寺事件、明覚寺事件が繰り返されるであろう。と括っている。だが、実はこれら心霊詐欺事件に対し霊を信じる心を犯人とするのは見当違いである。
それはなぜかというと、この手の詐欺事件は「霊能者」を「偽医者」に「霊障」を「ガン」に替えたって同じように成立するからである。この場合には霊魂を信じている必要はないし、合理的な知識を持っていたところで絶対に引っかからないという保証はない。ようするに、詐欺師側からすれば、霊魂を信じてる人がいるから霊感詐欺を行っただけであって、人々が信じていないのであれば他の方法をとるだけの話である。むしろ合理的に考える力があれば絶対に引っかからない分、霊感詐欺の方がよほど良心的といえる。
第二章では「霊についての仏教各宗派の見解」と題し昨日の日記に書いたとおり、かなり深いアンケートを行っている。ただ、やはり日本は神仏混交の歴史があるわけで、仏教だけに焦点を当てるだけでは適切だとは言えないのではないかと思う(ただ、これに関しては著者の扱うべき範囲ではなかろうから、それほどつっこむつもりはないが)。
そして「第三章 霊はあるか」では、馬鹿馬鹿しいまでに霊が物理的実体でないことを解説しているが、これに関してはまったく同意する。少なくとも、一般的に怪談などで出てくる霊は現在の物理学で十分否定できるものである。「見える」ということは反射した光が目に入ってくるということだし、「聴こえる」というのは空気の振動が鼓膜に届くということを意味する。だから、怪談などで現れる幽霊は皆物理的実体でなければならない(さもなくば、「怪談の科学」で述べられているような脳内で作られる幻覚である)。で、そうすると幽霊というのは霧状知的生命体などのような謎の生物になってしまうし、そんなものが生前の人間と同様の思考回路を持っているというのは考えにくい。
ただ、(著者のように)これをもって霊はいないというのは問題だ。なぜなら「霊はそもそも物理的実体であってはならない」からだ。それは逆に考えてみるとよくわかる。「霊というのは霧状知的生命体なんです。やはり霊魂は存在したんです!」ということが言えたとする。世の人はそれで納得するだろうか。そんなわけはない。霊が物理的実体であるかどうかという議論は、はじめからナンセンス以外の何ものでもないのである。



私は、霊を主観の立場から解釈すべきだと思っている。すなわち、霊を「イデオロギー」とか「文化」と同種類のものと捉えるべきなのだ。イデオロギーや文化は物理的実体を持たない。では重要ではないかというとそうではないし、世の出来事は物理法則だけでなくこれらの思考によっても左右される(完全にマクロな視野からみたら、そうとも言えないが)。
別冊宝島「本当に怖〜い話の本」の中で語られているように、怪談の起こるべき状況は周りの人間によって「幽霊は出るべきだ」、「祟って当然だ」という思いがあって始めて成立する。死刑制度が刑罰としてだけではなく「大衆の感情を静める」ものとして意味があるように、幽霊の存在も「死んだら消えてしまうという恐怖」、「身近な人が死んだ悲しさ」などといった感情を静めるものとして存在するのである。