日本経済の真の姿は「日銀VSインフレターゲット派」のはずなのに「構造改革VS景気対策」になっているのはどうしたものか。まあ確かに日銀みたいな機関がそんなに重要だとは普通の人には思えないのはわかるけどさあ。そんなに経済学って信じられないかねえ?
とりあえず、速水逝ってよしということで。



ソフトウェア・デザインの12月号を買って読んでいたのだが、その中に「kyleのシリコンバレー通信」という連載があった。で、今月の特集が「O'Reilly Mac OS X Conferenceに行ってきました」というものだったのだが、これを読んで「マックの時代も終わったなあ」などと思ってしまった。この記事の内容を要約すると「MacOS Xでのプログラミングの話を聞きにいったのに、UNIXの話しかしてなかった。ざけんな」というもので決してMac OS Xの批判記事ではない(むしろ筆者はMacOS Xに好意的)。それにも関わらずなぜそう思ってしまったのかというと「マックを使う意味って何よ」ということを考えてしまったからなのだ。
私自身はまったくマック使いではなく、実際に触って遊んだ程度なのだが、昔からユーザビリティという分野に興味があったことや絵描きであったこともありマックには憧れに近い気持ちを抱いていた。そこでつい最近、MacOS Xを触りに店に行って遊んできたのだが、その感想といえば「Windowsとかわらないじゃん」というものだった。もちろん私だってコンピュータとの付き合いはそれなりにあるわけでWindowシステムがそれほど変わらないことくらい知っているが、マックユーザの言う所の「肌触り」というもの(この表現が感覚的で嫌というならばマックならではの特異性)がまったく感じられなかったのだ。
この時点でユーザとしてみた時の私にとってMacOSの価値がなくなってしまったのだけれど、さらに前述の記事である。プログラマから見た場合、MacOS Xというのはあくまで「UNIX互換機」としか見られない可能性が高いという事実をこの記事は思わず突きつけてしまっている(特にLinux全盛の今の時代では)。これは、優れたライブラリを備えているにも関わらず、MacOS X向けに「Mac特異な」アプリケーションが極めて生まれにくいことも意味している。
もはやほとんどの人にとってマックを使わなければならない必然はない。
私が思うにAppleの誤算は「優れているものは好まれる」と思っていたことにあるのだろう。これは「悪貨は良貨を駆逐する」という意味で言っているのではない。むしろ私が主張したいのは「満足は最良を駆逐する」という点である。
過去、DOSやWindows3.1、そしてWindows95Microsoftは新しいOSを次々とリリースし市場を占拠してきたが、それにも関わらず世の良識ある人々は常にマックを支持してきた。しかし、時ここに至り、Windowsもそれなりに満足できる安定度と操作性を獲得してしまった。確かにMacOS Xはユーザの使い勝手や見た目という点においてWindowsに比べて勝っているが、もはや要求には十分であり、それを超える良さなどというものはオーバースペックでしかない。
神話になる「3年ごとのPC買い換え」」という記事もあったが、近年ハードウェアに起こっていたことがOSにも起こりつつあるということなのだろう。Microsoftはハロウィン文書の中で「オープンソースでは新しい概念を生み出せない」と述べていたが(この指摘はある程度正しいと私は思っている)、この「OSに対する満足」という傾向はLinuxが一般ユーザ向けのシステムでも成功できるという未来の可能性を示していると私は考えているが、どんなもんだろうか。