年末進行もとりあえず一段落。問題は大きな壁がすでに目の前にあることなんだが……。



やっとこさ噂の攻殻2の情報がお披露目。とはいえ、前作がアレだったのでちょっと疑心暗鬼ではあるが。
なんで押井版「攻殻機動隊」をあんなにつまらなく感じてしまうのか、一時期考えていたのだが、押井曰く「原作自体が自分の主張に沿っているからで、別に原作通りにやろうとしたわけではない」そうで押井らしくないという説明だけでは不十分な気がしたのだ。いろいろ考えた結果、どうも押井と私にはネットに対して感じている感覚に違いがあるのではないかと思い始めた。
ネットというのは極めて社会的であるし決して架空の空間ではないとは思うのだが、その一方で現実とはそうそう融合しないものだと私は思っている。人間は会社での自分、家族の前での自分、サークルでの自分、個人としての自分、etc...というように場によって違う自己を持っているわけだが、結局ネットでの自分というのもそのような自己のひとつでしかないというのが私の体感である。職場の人と歩いていたら子供時代の友人とばったりでくわしてしまうときに違和感を感じるということはないだろうか(少なくとも私はありありである)。ネットも現実世界に存在するのと同じように、ひとつの独立した場である以上、融合されると逆に戸惑う。あなたはオフ会とネット掲示板での自己の行動をまったく同じにできるだろうか。
二つの場が融合しないというのはネットだけでなく夢でも同様ではないかと思う。例えば「胡蝶の夢」の話でも「夢の世界が現実」なのか「今の世界が現実」なのかわからないということであって「今は夢であり、現実である」ということにはならない。これは、夢と現実はあくまで別の場であると認識していることを意味している。
しかし、押井にとってのネットとはそういうものではないようだ。「攻殻機動隊」では現実とネットの融合が主題となり、「Avalon」でも現実とネットの境界が曖昧になっていく。
押井作品を理解するには「皮膚感覚」が重要である。永遠に続く学園祭前夜、バブル期の再開発、平和、ゲームプレイヤーとその感覚を知らなかったり理解できなかったりする人間には押井作品の理解は極めて難しい。
だから、私には「攻殻機動隊」が理解できないのは当然なのだと納得した。さて、攻殻2は納得できるだろうか。「人と機械の境界が曖昧になった」という煽り文句が不安でならないのだが。