MSにJava搭載の仮処分》裁判に関してはどっちもどっちという感じだが、ユーザにとって損にはならない決定ではありますな。とはいえ、次々明るみになるMS-JavaVMのセキュリティホールにはMicrosoft自身が悩まされているので、ある意味誰も損をしないような……。



マリル・ハート・マッカーティ著「ノーベル賞経済学者に学ぶ現代経済思想」をやっと読み終わる。内容はタイトルどおりノーベル賞経済学者の生い立ちとその考え方、受賞した理論を通して経済学とはなんなのかを考えさせてくれる本である。ちょっと翻訳がいただけないのだが、まあ良書ではあります。
この本を読むと経済学というのが文系学問であるというのがいかに間違いかがよくわかる。本に出てくる学者の多くが自ら持ってる数学、統計学、物理学の知識の実践として経済学を始めている。数式も知らない奴ばかりに経済学を教えてる日本でノーベル経済学賞の学者が出ないのも当然だよな。
最近まで私も勘違いしていたのだが、経済学というのは経済の問題だけを扱うのではなく政治、倫理、歴史という所謂文系分野をより科学的に移したものだということがよくわかった。例えば、面白かったのはロバート・フォーゲルの項。フォーゲルは「理論なくして“事実”は説明できない」という考え方から歴史学を見直し統計学を駆使することで「アメリカ経済の発達における鉄道の重要性」や「南北戦争以前のアメリカ南部での奴隷制に関する研究」を行い歴史学者の説明とは異なる結論を導き出した。
歴史学では「鉄道の発達がアメリカ経済発展の原動力である」という説明がなされてきたが、データを経済学の知識に基づき検証してみると、鉄道の発達は経済の発達に遅れる形で起こっていることが明らかになった。フォーゲル曰く「鉄道網の建設はアメリカ経済発展の必須要素ではなく、むしろ十七世紀以来蓄積されてきた科学的知識の所産による」。
また、奴隷制に関しても一部の歴史学者は「南北戦争が起こらなくとも奴隷制はいずれ消滅したであろうから、アメリカの南北戦争は正当とは言えなかった」と主張するが、奴隷を資本として考えると奴隷制はきわめて有益で効率的な制度であったという結論が出てきた。奴隷はある意味、発展途上国労働集約産業のような役割を果たしていたわけだ。もちろん、フォーゲルは奴隷制を正当化する目的でこのような主張を行ったわけではない。「想像し得る中でも特に憎むべき制度である奴隷制は、経済的な理由ではなく、制度の正当性に対する社会の認識が変化しつつあることに答えた結果、倫理的な理由から衰退した」ということを言っているのである。
データ自身は何も語らないというのは統計学では常識だが(因果関係を参照)、何冊か読んだ限りでは歴史学ではその常識は通用していないようだ。歴史学者はそのデータ収集においては信頼に値する専門家だが、その解釈に関しては眉につばをつけなければならないだろうと最近感じている。そういえば、某枡添の本の帯に「政治家は歴史学倫理学を学べ」とか何とか書いてあったが、頼むから先に経済学を学んでくれ。