人としてどうかと思う



2003/02/21の日記の続きです。いや〜日記の更新が楽でいいや……と思ったら結局メールを書く時間は費やされているんだよねということに気付く(←てゆーか気付け)。他人の文章があると書きやすいのはたしかだけど。

どもども、英-Ranです。

ただ、物理学への信頼が強力だ、というのには疑問。
白衣を来た偽物理学者が出てきて「これこれこういう事実があるんです」と言われたら信じてしまう人がたくさんいるという事実を考えれば強力と言わざるを得ない。

ただ、経済学を使っての説得が難しいのはたしかかもしれない。
しかたないことなのだが、理系の技術者や理論をかじった人間よりも政治や経済をやっている人間の方が社会的地位は高い。だから社会を支配する論理は政治、経済の方に傾いているともいえると思う。
新聞の紙面を飾るのはそういう話題ばかりで、だからだれもが経済学を「無関係」とは思っていない。説得が難しいというのはそういうことでしょう。
問題は「経済」=「経済学」ではないこと。誰も経済学が現実の経済を大部分説明できることを知らない。企業の経営者やコンサルタントなどは経済学を知らないが個々の経済については多くの知見を持っている。だから、正しそうな意見を言うけど、それは「中国製品が日本の産業を駄目にしている」などのように表に出てくる事象を元にした想像であって、正しい説明ではない。
「人間は神が生んだのか」、「天動説か地動説か」など物理学にだって人々の関心事項は沢山あったわけだけど、一応長い間の信頼の積み重ねによって一般の人の理解を得たわけでしょう。経済学は物理学とは異なる立場にあるからという説明では納得できない。
#多くの人にとって直感的には天動説の方が正しく思えるはずですが、今現在では地動説を疑う人はほとんどいないわけですから

これはみんなが誤っているからではなくて、議論が活発であることを表している。私も君の意見がすべて正しいとは思っていないし、「自分がすべて正しい」という前提で話をしてしまったら、それは議論ではなく説教か喧嘩。
まあ、「自分の方が本を読んだんだから信じろ」と思うのはわからないでもないが。
これは反省すべき点だと思っとります。別に「自分がすべて正しい」と思っているわけじゃないんだけど、とりあえずまわりに私より経済学を知っている人間がいないから、仕方なくそういう役回りを演じてるだけなんですけどね。
私は経済学者ではないので「正しい=教科書に載っている記述」とみなしてしゃべっているわけですが、「史的システムとしての資本主義だって歴史学の教科書じゃないか」という意見はその通りだと思うので現在正しさの定義について思考中。
#そもそも、「史的システムとしての資本主義」が教科書扱いされているのが問題ではあるんだけど

あと、議論を傍目から眺めていて(日記からではほとんどわからんが)、とりいと君とでは扱っている歴史のスケールが違うと思う。君は技術屋らしくせいぜい数十年単位の話だが、とりいは歴史学が専攻で、しかも中国なので千年単位の話でしょ。
千年単位で成功した経済というのはないし、あったとしても今の経済学で語れるものではない。二人が経済を議題に話をしていることに問題があるわけで、これはもう双方が相手に合わせようとするしかないんだろう。議論というのはいつでもそうだが。
これに関しては明確に反論します。とりいさんとの議論でも「経済学は科学である」という点を何度も強調しているのだけど、経済学の根幹は「人が多くいて、資源が限られている時、どういう現象が起きるか」という点にあるわけです。資本主義にすべきか共産主義にすべきかみたいな議論は、そのような根底の法則の上でのあくまで技術論なのです。
歴史学は「人間達の政治史」であるわけですから、その意味で歴史学と経済学は同じ範疇の出来事を扱っているわけです。「SF作家や物理学は一万年先を見ているのだから単位が違う」という主張には納得せざるを得ないところもあるけど。


てらしまです。

白衣を来た偽物理学者が出てきて「これこれこういう事実があるんです」と言われたら信じてしまう人がたくさんいるという事実を考えれば強力と言わざるを得ない。
火の玉の大槻さんは偽じゃなくて本物だった、ってところはなんだかなあって感じだけどねえ。私はとんでもないトンデモ本だと思う『心は量子で計れるか』のロジャー・ペンローズに至っちゃ、本物のすごい大科学者だし。

問題は「経済」=「経済学」ではないこと。誰も経済学が現実の経済を大部分説明できることを知らない。企業の経営者やコンサルタントなどは経済学を知らないが個々の経済については多くの知見を持っている。だから、正しそうな意見を言うけど、それは「中国製品が日本の産業を駄目にしている」などのように表に出てくる事象を元にした想像であって、正しい説明ではない。
「人間は神が生んだのか」、「天動説か地動説か」など物理学にだって人々の関心事項は沢山あったわけだけど、一応長い間の信頼の積み重ねによって一般の人の理解を得たわけでしょう。経済学は物理学とは異なる立場にあるからという説明では納得できない。

「火の玉はプラズマである」とか「マイナスイオンは健康にいい」(ちょっと物理学ではないが)だって、「電磁波は身体に悪い」だって似たようなもの。
ともすると、企業の研究室でカルノー効率を超えるエンジンを開発しようとしていたりということもあるそうだ。
だから立場が異なるといったらいいすぎだけど。

たしかに新聞の一面に載るのは「経済」であって「経済学」ではない。
この比較に倣うなら「物理学」に対応するのは「工学」だろうが、例えばその工学で、「高効率の太陽電池が開発された」というニュースが新聞の一面に載る?
書かれるとしたら商品化されたとき、つまり経済になったときなのです。
しかし、「企業の経営者やコンサルタント」の経済についての知見ならいくらでも新聞に載ってしまう。これはただの「経済」で、なんの裏打ちもないかもしれないが、「経済学」に関連する(マイナスであるにしろ)のはたしかでしょ。
立場が違うというのはそういう意味。
これは現在での話で、過去にはガリレイが宗教裁判にかけられたりもしていたわけだが、今では、君の言葉を使うなら「理解を得た」。経済学は歴史が浅いから議論が活発で、物理の人にはうらやましいだろう。でも経済学もそのうち物理学と同じになるんじゃないの?


これ(注:歴史学と経済学は扱う時間の単位が違うということ)に関しては明確に反論します。とりいさんとの議論でも「経済学は科学である」という点を何度も強調しているのだけど、経済学の根幹は「人が多くいて、資源が限られている時、どういう現象が起きるか」という点にあるわけです。資本主義にすべきか共産主義にすべきかみたいな議論は、そのような根底の法則の上でのあくまで技術論なのです。
歴史学は「人間達の政治史」であるわけですから、その意味で歴史学と経済学は同じ範疇の出来事を扱っているわけです。「SF作家や物理学は一万年先を見ているのだから単位が違う」という主張には納得せざるを得ないところもあるけど。
経済学が科学であると認めておきながら「千年単位で成功した経済学がない」と書いたのは矛盾だし、私の間違いでした。
ある程度の実例でモデルを確かめることができていれば、少なくともそのモデルに還元できる事象については「説明できる」と考えるのが科学。だから「成功例がない」ことは反論になっていませんでした。
問題はむしろ、歴史学の方に「自分が科学だ」という意識がない(ずっとなかった)ことか。
とりいがウォーラーステインにこだわるのはたぶん、あの本(『史的システムとしての資本主義』だっけ?)のアプローチが「科学」っぽいからだと思う。あれは歴史の本であって経済学の本ではないというのは重要なところだが、少なくとも試みとしては歴史を科学的な帰納で説明しようとしている。
とりいの嗜好はそういう方面にあると思うから、科学を尊重すべきだという部分は君と共通している。
ちなみに私もあの本はあまり好きじゃないが、それはモデルのとり方に納得がいかないから。
しかし、「人間たちの政治史」が「人が多くいて、資源が限られている時、どういう現象が起きるか」と同じとは限らない。経済学が歴史を語るのはつまり力学から流体力学を作るようなものだが、歴史学者はまず「飛行機は飛ぶ」から話を始めてるわけでしょ。
人によるだろうが、私はどちらのアプローチも間違いとはいえないと思う。歴史だって根底の根底は量子力学でなりたっているはずだが、量子力学で歴史を論ずるのは効率的な方法ではない。
扱っている歴史のスケールが違うというのはそういう意味。
ウォーラーステインの本でいえば、まず「資本主義」という言葉とそれに対する一般的な見解がある、というところから話を始めている。つまり「飛行機は飛ぶ」。
この部分で著者に経済学(というより科学か?)への理解が足りない、とは私も思ったのだが、ここを認めてやれば納得できるのかも。かも。
私はもちろん、「飛行機だって墜落するし、飛行機じゃなくても飛ぶものはある」と反論したくなるのだが。