京極夏彦嗤う伊右衛門」を読み返す。再度、読んで驚いたのだが、映画版ってほぼ原作どおりに作ってあるってこと。それにも関わらず、なぜ終わった後の感想がああも違ってしまうのか。敗因のひとつは、「嗤う伊右衛門」という作品が京極が書いた中では珍しく、極めて冗長さの無い小説だったということだろうか。小説の段階でこれ以上無理なほどにくらい刈り込まれているのに、映画化する際に(たった数シーンではあるが)シーンを外し、ト書きの文章も補わないのでは、観客が意味不明に思えるのも当然である。役者が作品のイメージからずれている(唐沢敏明に無口な役は似合わない)のも問題だ。やはり押井が言うように映画を映画足らしめるためにはいろいろ工夫が必要なのだろうと思う次第。



あけてくれ経由で「"助動詞"廃止論を強く訴える吉川武時のホームページ」というページを見つける。
私も大学院時代に研究の参考に日本語文法やら言語学の本を読み漁っていた時があったのだが、その時「教科書文法は学問的に主流の文法ではない」ということを知って驚いた。日本語文法というものは学者によって様々なものが提案されていて、これが正当というものはない(主流なものはあるようだ)。だが、日本の国語教科書で教えられる文法というものは、それら学者の提唱するいずれの文法とも異なっており、主流ないくつかの文法の間をとったような独自の文法体系になっている。
で、私もそのとき個人的にではあるが「どういう文法が望ましいのだろうか」と考えたことがある。結論から言ってしまえば、それは「助詞、助動詞は廃止」というものであった。何故、そう思ったのか。それは、日本語において唯一明示的な区切りが「音節」だからである。たしかに、日本語文法はいくつもあるが、それでも音節の区切りだけは、必ず文法の区切りになっている。小学校で「ネ」「ヨ」をつけて読むと音節に分けられると習ったかもしれないが、ようするに音節というのは日本人なら誰にでも分割できる極めて強い区切りなのである。もし、助詞、助動詞を名詞や動詞の変形だと考えるなら、単語の区切りは音節と一致する(主流ではないが、こういう文法も提案されている)。
国語で文法を習う際、いつも不思議だったのは、なぜ日本人なのに日本語文法に基づいた単語分割ができないのかという点である。それも当たり前だ。日本語文法と呼ばれるものは、学者が論理的にこう解釈できると言っているだけのもので、日本語自体に備わったものではないのだ。前述のページにあるように、日本語文法をより自然な形にしていくことは、学習の面からも有意義なことであり歓迎すべきことだと私は思う。
そういえば、稲葉センセの「経済学という教養」の中で、人文系の学問では経済学と言語学はとても科学的うんぬんと書いてあったような気がするが、言語学に関して言えば勘違いのように思える。言語学がいくら変形文法のようなモデルを駆使したり、統計を使って語順を調べたところで、決して核となる部分は垣間見えてこない。知れば知るほど表面を弄くっているだけのように思えてしまう。私が思うに、今の言語学には「意味」を解明しようという気持ちが欠けている。たしかに「意味」は抽象的で扱いが難しい。言語学の鬼門といってもいいだろう。だが、我々人間が言葉を話す際、意味を考えずに話すだろうか。言語はあくまでコミュニケーションの手段なのだから、「意味」なくしては成り立たない。「意味」という核があってこそ言語は成立する以上、その解明を諦めたら言語学に未来はない。
私は、そういう意味で今の言語学には悲観的である。むしろ、脳科学の分野が「意味」という存在の実態を探り当ててくれるのではないか。そう考えている。