カンヌ映画祭において「イノセンス」は何も賞を取れなかったらしい。まぁ、あの内容だから取れたらその方が驚きではあるんだけど、個人的には複雑な思い。やはりファンとしては死ぬまでに一度くらい何らかのでかい賞を勝ち取ってほしいところではあるんだよなぁ。



本日は、複雑系と要素還元主義批判のお話。某所で書いたコメントで書ききれない……というか、書いてもしょうがないことがあるので、こっちでも書く。
複雑系という言葉は、要素還元主義を否定する概念として捉えられたり、人間的なちょっとした振る舞いによって未来が大きく変わってしまうので経済学なんてもので経済を理解できるはずがないとか、そういう旧来の科学を否定するためによく用いられているようである。だが、それは大間違いのトンデモである。
まず、複雑系が要素還元主義批判かというと、そういった考えに基づいて新しい学問体系を打ち立てようとした時代があったのはたしかである(たとえばホロンとか)。だが、現在まともに生き残っている複雑系分野、すなわち複雑系のインプリメンテーションを見てみると、せいぜい「カオスとフラクタル」であって、その他のものはすべて滅んだに等しい状況だ。
なぜ、滅びてしまったのか。それはちょっと考えてみれば明らかなのだが、複雑なものを複雑なまま理解しようとしても(少なくとも人間には)できないからである。「複雑系のモデルでこんな風に説明できる!」と主張しても、そのモデルから意味のある結果も引き出せないし、検証もできない。結局のところ、それは「人間は考える葦である」のような哲学的主張程度のものにしかならなかったのである。
このように言うと、では「カオスやフラクタル」はどうなんだという思う向きもあるだろう。実のところ「カオスやフラクタル」は切り口を変えた要素還元主義である。例えば、フラクタルというと「単純なルールからでも複雑なものができあがる」と説明されるが逆に言えば、「一見複雑なものも実はとても単純な仕組みから成っている(場合がある)」ということである。複雑そうで以前なら解明できなかった物事も「簡単なルール」という要素から組み立てられると言っているのである。カオスやフラクタルといったものは、複雑さの中にも「ある種のパターン」が存在するからこそ研究対象になるのであって、複雑でわけがわからないというだけでは研究する意味がないし論文の書きようもない。
すなわち、現在だけでなく未来も含め、要素還元主義というのは、すべての科学の根底技術なのである。
それを理解していれば、「要素還元主義的な思想って、19世紀のものじゃなかったのか?^^;)」などという発言は、現在に至るまでのすべての科学者(コンピュータを発明したノイマン情報理論のシャノンも含まれる)を馬鹿にした最低の発言であることが理解できるだろう*1。自身は、様々な科学技術の恩恵を被りながら、それをまるで過去の遺物のように扱うとはなんたる不見識かと思わざるを得ない。

複雑系というと「バタフライ効果」がよく出てくるが、これもあくまで比喩だということを忘れてはならない。 もしバタフライ効果が完全に気象に適用できるというならば、一秒後の天気すら予測できないはずである。しかし、実際には100%確実とは言わないものの一週間程度であればかなりの確率で予測できる。このように予測があたる理由は、各物体の動作できる範囲には限度があるからである。いくら量子論が非決定的だとは言っても、目の前にある物体が突如として頭の上に現れる確率はなきに等しい。各量子は非決定的でも、その総体である物体はまるで決定論的であるかのように振舞う(なぜ、このようになるのかについてはいくつか学説があるが、一般人にはどうでもいいレベルの話である。ここで重要なのは決定論的に振舞うという事実である)。各物体の動作範囲に限りがあるなら、その影響範囲にも自ずと限界が現れる。それだけでなく20日の日記に書いたように、それぞれの物体がランダムに動作するならば、それぞれ打ち消しあう部分も出てくる。たしかに時間が経つにつれてバタフライ効果の影響は無視できなくなるが、近々の予測まで全否定するという極端な話ではないのである。


というわけで、川俣 晶と中村正三郎というコンピュータ界の二大賢人に喧嘩を売ってしまっているわけだが、これで山形浩生に喧嘩を売った日にゃ、この業界から追放ものですな(^_^;

*1:この議論の大元となった@ITの件に関しては、「プログラミング言語はただの道具であり、科学的に議論されるべきだ」という私のイデオロギーも絡むので、氏の主張そのものをトンデモなどと言う気はさらさらない。が、この発言にはちょっとばかり頭にきていたのだ。あっ、でもプログラマとしては尊敬してますので(ペコリ)