どうでもいいことだが、ブロスの犬特集に押井が出てこないのは片手落ちだと思う。



英語をサボり気味でかなりヤバ気なので、リハビリもかねて『羊堂本舗』2004-05-25にて紹介されていたスティグリッツによるアウトソーシングと失業についての文章を訳してみた。長いセンテンスが多くて、怪しい訳が多いので参考程度に。


アウトソーシングと失業

グローバリゼーションに関する討論会では、最近アウトソーシングという言葉が流行している。(長いことグローバリゼーションの王者だった)アメ公どもは、突然自身の経済への逆効果を心配し始めたようだ。もちろん、失業の心配のない者達は、熱心にそれらに防戦を張っている。彼らは、生産性を改善するテクノロジーの変化が利益がもたらしたのと同じように、アウトソーシングはコストを削減し、その利益によってアメリカ経済は良くなるに違いないということを強調している。
彼らが断言する経済の法則は、長期では政府が最低賃金の設定や職場保証などにより市場に干渉したり、組合が過度に賃金を上昇させなければ、職を欲しがる人すべてが仕事を得るだろうというものである。競争市場において需要と供給の法則は最終的に釣り合う。すなわち、長期にみれば、労働需要は供給に等しくなる。そこに失業は存在しない。しかし、ケインズは厳しく「長期的に我々は皆死んでいる」と表現した。
即座に失業を捨て去ると次のような重要な点を見落とすことになる。まず、アメリカ経済はずっと良くない。貿易赤字財政赤字に加え、失業問題もある。新参者を労働力に変える雇用の供給として、過去3年半の間に4〜600万人分の仕事が作られるべきだった。実際にはそれどころか200万人以上が解雇された。これは、大統領府が存在する期間のアメリカ経済における純失業率で考えると、大恐慌初期のハーバート・フーバーが大統領として在任していた期間以来のことである。
少なくとも、このことは市場が働きたい人々にすばやく仕事を与えるようには働かないことを意味している。政府には完全雇用を実現するために重要な役割がある(この役割においてブッシュは最低最悪だ)。失業が少なくなれば、アウトソーシングに関する心配も少なくなるだろう。
とはいえ、アウトソーシングの、例えばハイテク産業のインドへの移転といったものに関してはより深く心配する理由があるように私が思う。それは「労働者はグローバリゼーションを恐れる必要などない」という神話を崩壊させる(これは、アメリカやその他の先進国がグローバリゼーションに関する討論をする上での中心的な主張である)。
そう、アウトソーシングの弁護人達はこのように言うのだ。「先進国の連中は、中国などの低賃金労働者が繊維産業で行うのと同様に、そのような産業では非熟練労働の職は失われるだろう」と。しかし、良い考えはおそらく悪い考えでもあるのだ。なぜなら、アメリカは熟練労働者と進んだ技術による競走優位な産業に特化するしかないからだ。教育の質の向上、特に科学技術分野での教育の質を上げることで技量の向上を行うことが必要となってくる。
しかし、この議論はもはや説得力を欠いているように思える。アメリカは、中国やインドよりも少ない技術者しか生み出していない。また、たとえ発展途上国から来た技術者に訓練や地理などの幾分不利な点があったとしても、賃金格差によって埋め合わせができる。アメリカや先進国の技術者、コンピュータの専門家は賃金カットを受け入れるか、失業するか、(往々にして賃金が落ちる)別の職を捜さなければならなくなるだろう。
もし、よく訓練された技術者やコンピュータの専門家でさえアウトソーシングの猛攻撃に耐えられないならば、訓練されていない者達はどうなるというのか? そう、次世代レーザーの革新のような研究におけブレークスルーが起こって、アメリカは頂点に立ち競争優位を維持できるかもしれない。しかし、大多数の技術者やコンピュータの専門家は、「平凡な科学」と呼ばれる産業で働いている。重要なことは、日々の技術改善こそが生産性の長期的な向上の基盤となるということである(そして、アメリカが長期的な競争優位を持っているかどうかは明白ではない)。
アウトソーシングの議論からは二つの教訓が導き出される。まず、アメリカがグローバリゼーションの調停という挑戦に乗り出すとして、資源の非常に乏しい発展途上国の窮地には敏感になるべきであるということである。結局、相対的に失業率が低く社会的なセーフティネットを持つアメリカは、そのような国を発見した場合には、(ソフトウェアだろうが鉄鋼だろうが)労働者を保護し、外国からの競争者に対し毅然とした態度を取る必要がある(発展途上国によるそのような行動ならばなおさらである)。
二つ目は、アメリカが心配しているのは今であるということである。多くのグローバリゼーションの提唱者は、アウトソースされた職の数は相対的に少ないと主張し続けている。もちろん、最終的にどのくらいアウトソーシングが起こるかに関しては議論がある。ある人は、労働者の二人に一人はアウトソースされると言っているが、別の人はより多くの制限がある可能性を主張している。多くの他の仕事に詳細で局所的な知識が必要となるような、例えば散髪屋はアウトソースできない。
とはいえ、最終的な数に制限があったとしても、労働者と賃金配分には劇的な効果が現れる。成長は加速されるが、(失業する人が出るだけではなく)労働者は困窮するかもしれない。これは、現に発展途上国で現れている現象である。NAFTA(北米自由貿易協定)に署名して以来、過去十年間においてアメリカの平均実質賃金は確実に減っている。
グローバリゼーションから利益を得る人びとに魔法の砂を振りかけ欺くのは馬鹿げている。今日におけるグローバリゼーションの問題は正確には、もし政府がグローバリゼーションを管理し具現化するために積極的な役割を果たさないならば、少数の人が利益を得る一方で大多数の人は賃金が低下するということである。これは、アウトソーシングの継続中の議論において最も重要な教訓である。
訳が良くないせいだろうが、スティグリッツが何を意図しているのかはいまいち良くわからない。前半の新古典派批判はまぁわかるが、後半はグローバリゼーション反対と言っているのだろうか。たしかにスティグリッツは自著の中で、無制限なグローバリゼーションが後進国の状況を悪くすると憤慨しておられたが、この文章だけ読むとまるで自由貿易にも懐疑的なように見える。sheepman氏はオークンの法則フィリップス曲線を意図してか「利上げすんな」と言っているのだと読んでいるが、素直に読んだら当然そうは読めないわけで。うーむ。

私はネット上でも引きこもり気味な人間なので、中村正三郎氏に再度反論などのメールは送っていないのだが、このままにしておいていいものだろうか。いちごではドラエモン氏の一喝でこのネタに関しては扱わないことになったようだが(いちごにタレこんだのは私ではないので念のため)、中村氏の知名度を考えるとこのまま放置することで、経済学の置かれている状況をさらに悪化させるのではないかと不安である。中村氏はあのサイトで科学技術に関して取り上げることも多いことを考えると、うぶな技術者達には「科学技術の専門化が経済学をトンデモ認定」したと取られてしまうかねない。
もし物理学に関するトンデモ発言を中村氏が行ったなら、物理学の怖いお兄さんからそれなりに多くの批判メールが送られてくること必至だと思うわけだが、なぜ経済学ではそれが起こらないのか。非常に不思議だ。