ジャーナリストの誤謬」のカウンタがやけに回ってるなと思ったら、bewaadさんとこで紹介されてました。一度ならず二度まで紹介していただけるとは。もう霞ヶ関に足を向けて寝れませんことよ。
しっかし、Referrerすら取ってないのでどこからリンクが貼られてるのかがわからず非常に不便だ。日記の年度管理もめんどくさくなったし、この日記もそろそろブログに切り替える時期かもしれぬ。



根井雅弘著「経済学のことば」を読む。引用文が長すぎて各経済学者のキャラ特性が見えにくくなっている感はあるけれど、経済学という学問について考えさせられる一冊になっている。読んで思うことは、やはりアダム・スミスケインズの先見の明のありすぎるところ。近代経済学の基本的な要素はこの二人の業績だけでほとんど埋まってしまうんじゃなかろうか。アダム・スミスについて私は「市場原理主義」の人なのだとばかり思っていたけれど「少数の人の自然的自由の行使は、もし、それが全社会の安全をおびやかすおそれがあるなら、最も自由な政府であっても、最も専制的な政府の場合と同じように、政府の規制によって抑制されるし、また抑制されるべきものなのである」と市場原理主義の適応範囲についても意識していたようだし、ケインズの「流動性選好」などまさに金融政策・インフレ目標論の源流ではないか。先人は偉大なり〜。
個人的に心に残ったのは、ハイエクについて書かれた以下の部分。

ハイエクによれば、人間は、何千年もの長いあいだ、少人数からなる部族社会のなかで生きてきた。そのような小集団では、そのメンバーの必要にうまく応えられるような「共通の目的」を設定することが容易であった。ところが、「市場」という非人格的メカニズムの登場は、部族社会における「共通の目的」を、次第に「各人が自分の意図のために使うことを許されている手段の領域に境界を画する抽象ルール」によって置き換えるようになった。そして、その適応に成功した社会が文明を発展させ、アダム・スミスが言う「大きな社会」となったのである。
ところが、現代の社会主義者たちは、部族社会から受け継がれてきた本能に訴えかけることによって、人間を再び「共通の目的」に従属させようとしている。なぜなら、「社会的正義」なるものは、「個々の人びとに、その人の功績や必要に照応する報酬として、特定の利益を保証する」ことを意味するが、そのためには、「個人に対して、諸目的のただひとつの共通の位階秩序に貢献するように強制し、権威主義的な活動計画の見地からみて必要なことがらをおこなうように要求するといった秩序(組織と称するのが最上である)が必要」だからである。
それゆえ、ハイエクは「社会的正義」という概念は、少しも新しい道徳ではなく、「先祖返りであり、開かれた社会に部族社会の道徳を課そうとする空しい試み」というのである。
ここまで強力な「社会的正義」に対する反論があったとは。私もこの言葉に同意する。そして、政府のやるべきことは「痛みをともなう構造改革」などという「社会的正義」に根ざした方法論ではなく、ダメ人間はダメ人間なりに、ヲタクはヲタクなりに、貧乏人は貧乏人なりに皆にとって得な(すなわち、パレート改善的な)方法論をとるべきなのだと深く思うのである。