大人になる

るびま0012号の巻頭言には唸らされた。

少し暗いことを書く。
来年、2006 年は、日本でも Ruby が流行することになるだろう。(中略)しかし、それは私達にとって、けっして喜ばしいだけの話ではないかもしれない。
Ruby が広く浸透するとどうなるだろうか。まず、要求がシビアになる。互換性の維持がうるさく言われ、ドキュメントの不備が叩かれ、開発体制やサポート体制についての批判が増える。「これでは業務に使える水準に達していない」といった意見が陰に陽に囁かれる (もちろんそのような意見を言う者を尻目に、業務にも使われていき、ビジネス的価値を生み出していくところには生み出していくのだが、あまり皮肉を言っても仕方がない)。 Ruby に関係する怪しい業界団体を作ってみようといった、わけのわからない横槍も出てくるのかもしれない (日本 Ruby の会もわけのわからなさでは人後に落ちないとは思うが)。
Ruby の開発の停滞も懸念される。ドラスティックな変更は、たとえどんなに優れたアイデアであっても、それがドラスティックであるというだけで歓迎されなくなるかもしれない。クリティカルな部分については、文字通り「凍結」されることになりかねない。もちろん、歓迎されるかされないかはおいておいて、ありうべき Ruby の形を目指して開発を進めることはできるが、様々な批判は前向きな開発者のやる気を殺いでしまう。

人が大人になるように、プログラミング言語も大人になっていく。大人になることがいいことなのかどうか。子供のまま留まることがいいことなのかどうか。これは難しい問題だ。なぜ、大人にならなければいけないかと言えば、それは人生を円滑にするめるためだし、それは決して非難されるようなことではない。しかし、その一方で、大人になった山形浩夫など誰も見たくはないわけで、子供的な束縛されない自由さに人々は憧れ、時には賞賛を与える。

大人的な作法と子供的な自由は背反するものなのだろうか。両者を包含する方法論はないのだろうか。もしかすると、ひとつの解決法は人々がもっと無責任になることかもしれない。他人のことは気にしない、そうすれば周囲に気兼ねをすることなく自由を謳歌できる。しかし、このような世界で人々が幸せを手に入れられるかというと、そんなことはありえそうにない。だんだんとコミュニケーションが疎になっていく現代において、人々のコミュニケーションに対する満たされない想いは徐々に強まっているように思える。

結論はでないが、とりあえず、そんなことを考えながら今日は寝ることにしよう。おやすみ。