小川洋子著「博士の愛した数式 (新潮文庫)」を読む
彼のことを、私と息子は博士と呼んだ。そして博士は息子を、ハイルと呼んだ。息子の鼻の下のちょびヒゲがヒトラーそっくりだったからだ。
「そ、総統! 私は歩けます!」
ヒゲがくしゃくしゃになるのも構わず鼻下を撫で回しながら、博士は言った。友だちにからかわれるのを嫌がり、いつもヒゲを剃っていた息子は、警戒して首をすくめた。
「これを使えば、無限の人間にも、目に見えない悪人にも、ちゃんとした処罰を与えることができる」
彼は埃の積もった仕事机の隅に、人差し指でその形を書いた。
E = mc2
……というような話ではなかったことだけ、ここに書き記しておこう。