経済学な思考(嗜好?)から遠ざかっていく私

svnseedsさんところののコメント欄でやってる議論でのsvnseedsさんの記載に違和感があったので書き留めておく。

なんで景気循環はなくせるしなくすべきだ、と思う人がいるのか僕にはさっぱりわかりませんよ。夜より昼が好ましいからといって、ずっと昼であるように太陽をなんとかしようと考えるのと同じだと思うんです。人間に出来ることは、夜の暗さを知識と技術でもって明るく照らすことではないか、と。

景気循環をなくせるかどうかは別として、景気循環なんて無いなら無いほうがいいんじゃないかと。少なくとも景気循環がある社会より景気循環のない社会の方が不確実性が減る分、より効率よく資源も使えるから効用も上がるわけだし。
フリーランチがあるならば経済学なんて必要ないように、結局のところ景気循環を消滅させるコストは大きいのでそれは無理だけど、金融政策のようなマクロ政策を使って経済を安定させ出来るだけ古典派の世界に近づけたいという気持ちが経済学者の底流を流れる意識の中にはあるように感じられるように私には思える(例えば、新古典派総合とか)。

結局、「平等」とは機会の平等であって結果の平等であってはならない、ってところがポイントかと。左の旦那さま方は後者を求めますからね。日本で言われる「平等」も大抵は後者であり、そして僕もそれが日本の不幸な人たちの原因のひとつだと思います。

基本的には同意できるのだけど、結果の平等と言わずに所得格差の減少を考えるのであれば、必ずしも左の旦那さま方の見解も否定できない部分があるように思える。
限界効用低減もそうであるし、今、読んでいる橘木・森「日本のお金持ち研究」の以下の記載などは、所得の再配分による所得格差の減少が経済に良い影響を与えることを支持しているように思える*1

経済学による最適所得税制に関する分析をまとめると、次の三つが重要な要因である。(1)どのような社会的厚生関数を想定するか、(2)所得税が労働供給に与える効果、(3)人の能力分布の形状、である。
 この三つの要因を考慮した上で、日本経済における最適所得税制を求めたものとして、アトダ=タチバナキ(二○○一)がある。この研究の結論は、一九七〇〜八○年代の所得税の累進度は、ほぼ最適に近いものであったとするものである。すなわち、効率性と公平性の兼ね合いを考慮した上で、日本の所得税制はほぼ理想に近かったのである。
 当時の最高税率は七〇%、最低税率は一○%であり、しかも一五段階の税率が定められていたことはすでに述べた。すなわち、所得税制の累進度は相当強かったのであるが、経済学の計算上からは望ましい税制だったのである。

なお、同書では「高額所得者に対する高い所得税制を課すと、労働供給にとってマイナスであるとする反対論がある」ことに対し、日本ではそもそもデータがなくて調べようがないが、欧米のデータからは税が労働供給に与える影響は、存在しないか、きわめてマイナーなマイナスの効果しか出ていないことも紹介されている。

*1:本当は、各国の幸福度とジニ係数なりの比較データがあると、さらに面白いのだが、残念ながら手元にある資料には記載がなかった

反経済学的に考える

毒をくらわば皿まで(←おい)

のびたさんからの書き込みに対し、以下のように書いた。

「経済学が人々の幸福を語りえるか」という命題を考えていくと結構否定的結論しか出てこない

一応、自己フォローというか補足の意味で書いておくと、まず「経済学に不可欠なものは何か」と考えてみると、やはり経済現象の解明と各種経済理論ということになるだろう。でだ、この経済現象の解明と各種経済理論を考えたとき、幸福という概念は必要なのだろうかと考えてみると、残念ながら切り捨てることができてしまう。
具体的にミクロ経済学の基礎である効用→無差別曲線→予算制約→需要曲線→パレート最適という流れで考えてみる。効用と言う言葉が出てくることを考えると、「=人間の幸福を考えている」と考えがちだけれど実際は違う。なぜなら、前提が効用なだけで、出力のパレート最適は資源が無駄なく使われていること以上は意味しない。すなわち、その状況が社会的厚生関数(=人々の幸福)を最大化しているとは限らない。例えば、効用に基づいてケーキを買ったけど、おいしくなかったなどということは良くあることである。
なぜこんなことになってしまうのか。それは前述のミクロ経済学理論における効用が、人間そのものではなくて、人間の消費者行動をモデル化したものにすぎないからだ。経済学の目的が経済現象の解明である以上、必要となるのは人間の消費者行動の側面であったり、労働者としての側面であったり、投資家としての側面であったりで、人間自体や人間の幸福そのものは(狭い意味での)経済学には不要なものなのである。

このように考えていくと、幸福の政治経済学の位置がはっきりする。幸福の政治経済学とは厚生経済学の本来あるべき姿なのではないだろうか。多くの経済学者は厚生経済学のツールとして一般的な経済理論を当たり前のように利用してきたが、実のところ厚生と経済理論にあるリンクは切れている。そして、そのリンクは「所得の上昇=幸福」、「失業率の低下=幸福」といったある種の世間知によって無自覚に紐付けられてきたのである。幸福の政治経済学を用いることで、このような世間知によるリンクに頼ることなく正しく実証的な厚生経済学が可能になると思うのだが、いかがだろうか。だめですか。そうですか。

最近どうよ

どうよって、どうよ。ワケワカ。

最近どうも反経済学的なエントリとか発言が増えてるのだが、別に経済学を批判する意図はないことを考えると、単に私個人の目的・興味が経済学の範疇から微妙にはずれてきているじゃないかという気がする。そのくせ、経済学とまったく無関係ともいいきれないので、使えねんだよゴラァというようにしか聞こえない発言に繋がってしまうのだろうなぁ。ムフン。

まぁ、いいか。どうせただの日記だし。