反経済学的に考える

毒をくらわば皿まで(←おい)

のびたさんからの書き込みに対し、以下のように書いた。

「経済学が人々の幸福を語りえるか」という命題を考えていくと結構否定的結論しか出てこない

一応、自己フォローというか補足の意味で書いておくと、まず「経済学に不可欠なものは何か」と考えてみると、やはり経済現象の解明と各種経済理論ということになるだろう。でだ、この経済現象の解明と各種経済理論を考えたとき、幸福という概念は必要なのだろうかと考えてみると、残念ながら切り捨てることができてしまう。
具体的にミクロ経済学の基礎である効用→無差別曲線→予算制約→需要曲線→パレート最適という流れで考えてみる。効用と言う言葉が出てくることを考えると、「=人間の幸福を考えている」と考えがちだけれど実際は違う。なぜなら、前提が効用なだけで、出力のパレート最適は資源が無駄なく使われていること以上は意味しない。すなわち、その状況が社会的厚生関数(=人々の幸福)を最大化しているとは限らない。例えば、効用に基づいてケーキを買ったけど、おいしくなかったなどということは良くあることである。
なぜこんなことになってしまうのか。それは前述のミクロ経済学理論における効用が、人間そのものではなくて、人間の消費者行動をモデル化したものにすぎないからだ。経済学の目的が経済現象の解明である以上、必要となるのは人間の消費者行動の側面であったり、労働者としての側面であったり、投資家としての側面であったりで、人間自体や人間の幸福そのものは(狭い意味での)経済学には不要なものなのである。

このように考えていくと、幸福の政治経済学の位置がはっきりする。幸福の政治経済学とは厚生経済学の本来あるべき姿なのではないだろうか。多くの経済学者は厚生経済学のツールとして一般的な経済理論を当たり前のように利用してきたが、実のところ厚生と経済理論にあるリンクは切れている。そして、そのリンクは「所得の上昇=幸福」、「失業率の低下=幸福」といったある種の世間知によって無自覚に紐付けられてきたのである。幸福の政治経済学を用いることで、このような世間知によるリンクに頼ることなく正しく実証的な厚生経済学が可能になると思うのだが、いかがだろうか。だめですか。そうですか。