ベーカム

ベーカムと言えば、ソニーが開発したアナログコンポーネント記録のカセット式VTR……のことではなく、ベーシックインカムのことである。今日のアクセスは飯田先生がパーソナリティを勤めるということで聴いてみたのだが話題はリフレ、ではなくベーカムだった。

放送では哲学者の萱野稔人氏が最も筋の通った反対論者であったが、LIFEの時の樋口明彦氏との議論でも「人々に選択肢を与えるだけではだめで、ある程度の社会の方向を政府が決めた方がよい」と反対されていたことを考えると、ベーシックインカムの是非は最終的には「労働を通じての社会参加を国民のあるべき姿として強制すべきか否か」いう点に集約されるのではなかろうか(なお、その他にも多々異論は出たが、いずれも実証的に反論可能であり感情を抜きにすれば問題ではないと認識している)。

幸福の政治経済学にも述べられていたが、人は労働を通じて達成感を得ることで幸福を感じる。これは実証的にも裏付けられている事実であり、ナッジ的に考えるならば政府が国民に労働を義務付けることも決して間違ったこととは言えない。

現行の生活保護制度のような破綻した制度を強化する取り組みは論外であるし、萱野稔人氏が主張する公共事業による労働の供給は景気の問題に対する無理解がありとうてい適切な手法とは言えない。しかしながら、例えば、給付付き税額控除の受給資格として職業訓練を義務付けるなどの方法であれば理解できなくもない。すなわち、労働への参加(意欲)を受給資格とする仕組みである。

その一方で、多くの人が労働を通じて幸福を得るからといって、すべての人がそうではないのもまた確かである。人々の生き方を国家が規定しないという考え方を是とするのであれば、ベーシックインカムの方がより良い仕組みとなる。もし、ベーシック・インカムが実施されれば、ボランティアや市場化が上手くいっていない介護領域、そして文化・芸術方面(アニメータ含む)など非金銭的な価値に基づく労働が活況になる可能性も高く、労働を通じての社会参加を妨げられるとは必ずしも言えない。

具体的な制度設計としては、ベーシックインカムに利があるように私は思うが、「労働を通じての社会参加を国民のあるべき姿として強制すべきか否か」は価値観の問題であり、最終的には国民の意向に従うということになるのかもしれない。

……とはいえ、最低賃金生活保護、失業保険みたいな問題の多い制度を掲げてベーカムに反対するのは頭悪すぎるので勘弁してほしいものだが。

今の日本は不況ではなく構造変動だ by 鈴木謙介

今頃になって昨年末のLIFEを聞いているのだけれど、チャーリーこと鈴木健介氏から次のような衝撃的な発言が。

僕も今年グローバリゼーションを大学で教えててね。すごく学生達が目うろこなのは。今の状況ていうのは不況じゃないんだ、構造変動なんだと言うと、みんなびっくりするんです。びっくりすること自体がびっくりなんですけど。グローバリゼーションというのはこういうことがあって、実は先日対談した萱野さんとの対談でもそういうことをしゃべっているので、ぜひ聞いていただきたいんですけれど。今、日本が迫られていることは構造変動なんだ。不況だから我慢していればいつか良くなるものじゃなくて、構造変動に直面しているんだ

2009年12月27日「文化系大忘年会2009」Part6 (文化系トークラジオ Life)

私もびっくりです。今の日本は単なる不況だと思うのですが。もし構造変動だとするならば、何をしようと不況は防げなかったし、簡単には解決しないということになってしまう。構造変動なので、学生である君達が就職に失敗するのは致し方ないことだと言うつもりなのだろうか。

昭和恐慌、大恐慌含め過去に何度もあった現象だし、日銀がきちんと機能すればとうに解決していた問題なわけでしょ。失われた20年の中に大きな物語を見出したとしても、事実として単に政策を失敗し続けただけなのであれば、その物語は錯覚にしかすぎないと思うのだがいかがだろうか。

直前の柳瀬氏によるグローバリゼーションについて発言がすばらしいだけに、がっくりときてしまった。

日本の不況に関してはむしろ安達誠司氏の感想の方がしっくり来る。

本書を書くきっかけとなったのは、今回の日本のおけるデフレーションを巡る経済論争が、約七〇年前に起こった昭和恐慌期に闘わされたそれと全く同じレベルの議論であったことに気づき、ある種の脱力感に苛まれたことであった(中略)日本における経済思想の流れを、通常の経済思想史の手法とは逆に、現代から明治維新期まで遡ってみると、経済失政をもたらす思想的な背景として、江戸時代の朱子学的な思想、特に、金融を「虚業」として軽視する考え方が、明治時代の為政者の中に脈々と受け継がれていることがわかった。この「金融軽視」の考えが、通貨システムに対する無理解に形を変えて、日本を度々デフレーションに陥れていること、そして、幕末の攘夷思想のトラウマともいえる「アジア主義」がこの通貨システムの無理解と融合することによって、円高信仰が生まれたというのが、日本の経済学における「敗戦」に他ならなかったのではないだろうか。

安達誠司『脱デフレの歴史分析 「政策レジーム」転換でたどる近代日本』 - rna fragments

今回の不況は構造変動ではない。むしろ日本の構造が変わらなかったからこそ、災厄が再来したのだ。我々は学問に真摯に向かい合うという意味での構造改革を今まさに迫られているのである。