映画「ヴィドック」を見る。このタイトル、何が紛らわしいかってビデオの表紙とかに出てくる鏡の顔を持つ男の名前じゃないってこと。ヴィドックというのはこの映画の主人公(?)らしき探偵の名前なのだが、オープニングで散々経歴を書いておきながら、はじまって早々いきなり死亡。見終わった後でも何でタイトルがヴィドックなのだろうかと考え込んでしまった。結構トリッキーなストーリーになってるのだが、あまり上手くはいってないかなという気はしないでもない。
いろいろ欠陥はありながらも、なかなか面白い映画に仕上がっているとは思う。作り物感漂うセットが逆に奇妙な雰囲気を醸し出してるし、鏡男のアクションシーンは非常にかっこいい。まあ傑作とはいわないまでもお薦めということで。



歴史も割とおもしろいかもと思い始めたので塩野七生「文庫版 ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず[上]」を読み始める。とりあえず、2chでみた限りでは基本的に嘘はないみたいなので安心して読んでみよう。

歴史の本を探す時に何が困るかというと、何が良い本で何が悪い本なのかわからない点。基本的には事実誤認がなければ許可という感じなのだが、人文系の分野はイデオロギーの入り込む余地が大きいのでそれが気になってしまう。これは偏見なのかもしれないけど、人文系の場合(まともな学者の論であっても)「解釈がある」のが当たり前で、それが常識となっているように見えてしょうがない。
理学系の場合、「前より後の方が優れている」で何ら問題ない世界なので進歩史観を疑う必要はまあないわけだが、「それは進歩史観だ。偏っている」とか「物理学が正しいとなぜわかる」とか言われてしまうとうろたえてしまう。少なくとも不完全性定理があるから完全な証明はできないと自ら証明してしまっているわけだし。工学屋だと「だって役に立ってるでしょ」とか言ってしまうのだが、「私は自然に囲まれた生活に戻りたい」とか主張されると「ああそうですか」としか言えなくなってしまう。結局、不毛な議論には加わるまいと自分の分野の中に引きこもることになるのだが、これが学際的研究というお題目が上手くいかない最たる理由なのかもしれない。
この各分野の常識の違いってのは結構重要だったりする。例えば工学といえば理学系だから物理的な常識を元にしていると思われがちだが実のところそうでもない。工学屋の人は物作り出身だから、物理的に不可能でも「もしかして作れるかも」と思っているふしがある。ソニーAIBOを作ってた土井利忠が天外司郎という名前で「超能力」とか「気」などに関するオカルト本を書いていたり永久機関を作ろうとしていたのは有名な話だが、そんな極端な例を出さずとも当時の物理学者がそろって不可能だと言っていた半導体の限界を打ち破ったのも技術者だし、青色発光ダイオード、液晶ディスプレイなど物理的な常識に捕らわれていては作り出せなかったであろう技術は多くある。逆に、ジンジャーの製作者でもあるディーン・ケーメンは、物理学の素養からどういう原理で動いているのかを考えシンプルに機能を実現する方法を考えるから技術者には考えつかないものを作り出せすことができると語っていた。歴史を科学的アプローチで扱った「銃・病原菌・鉄」が歴史学者ではなく医学や生物学、生理学を学んだ人の手によって書かれたのもその常識ゆえなんだろうな。