最近よく「愛国心」とか「ナショナリズム」という言葉を良く聞くようになったが、これらの言葉の使われ方になんとなく違和感を感じている。そのひとつとして「愛国心は右翼的思考だ」というものがある。
ここで、ちょっとだけ深く愛国心というものを考えてみよう。愛国心とは「自国を愛する心」である。ただ、愛する心というのは分かりにくいので、ここではもっと具体的に「自国をより良い状態にするインセンティブを持つ」と定義し、その程度を愛国値(実数)として表現する。すると、次に三パターンに分類できる。

このように分類すると前述の言葉は「自国をより良い状態にするインセンティブを持つのは右翼的思考」と記述できるだろう。たしかに右翼は日本の文化を尊重することで自国がより良い状態にしようと考えているわけだからこの表現自体は正しい。しかし、左翼だって革新によって自国がより良い状態にしようとしているわけだから愛国心という意味では右翼と同じではないか。
実は、これだけでなく「近頃の若者は愛国心を持たない」という表現にも違和感を感じている(この表現の具現化として、教育基本法愛国心を盛り込む動きもあった)。この文が若者が愛国心を持たないことを批判していることは明白であろう。しかし、だからといってこのような発言を行った人が「若者は愛国値がマイナス」ということを意図して発言しているとはとても思えない。たしかに若者には破壊的衝動を持つものが多いが、自国を恨んで破壊活動を行っているわけではあるまい。そうすると、発言者の意図は「若者は愛国値がゼロ」だと主張していることになる。しかし、良く考えてほしい「愛国値がゼロ」であってなにか困ることはあるだろうか。ゼロはいくら足してもゼロである。もし世の中に「愛国値がマイナス」の人々が多すぎるので「愛国値がプラス」の人々が増えて欲しいというならばわかる。しかし、現実的に今の日本に自国をより悪い状態にするインセンティブを持つ人がどれほどいるだろうか。総量を考えた場合昔に比べ減っている可能性はあるとしても愛国値の合計は今だプラスと考えるのが妥当である。すなわち、「近頃の若者は愛国心を持たない」という考え方を推進すべき明白な根拠はないと考えるべきではないか。
……という思索をしてみたが、わりと根拠レス気味。まあ、右翼を愛国心と結びつけることの誤りくらいは納得させることができるかもしれないけど。うーむ。