山口仲美著「犬は『びよ』と鳴いていた 日本語は擬音語・擬態語が面白い」を読む。著者は言語学とか民俗学かと思ったら古典文学畑の人らしい。「ワンワン」「ニャンニャン」「モー」といった動物の鳴き声を表す擬音語は、実は江戸時代まで存在しなかったなど面白い話が満載。新書ではあるが読んだ後、満足感が残る立派な作りである。買って損はしないと思う。
2003/02/26日の日記では民俗学の解釈のいい加減さについて文句を言ったが、本書でそのような文句がでないのは言語自体を対象をしているからだと思う。言語には、文化・習俗を調べる上でいくつかの有利な特徴を持っている。まず、ひとつめはデータ量の豊富さ。過去に限らず現在においてもほとんどの記録は言語によって記さるため、根拠を示すに十分な資料が得られる。ふたつめはデータ自体の著者の意図が影響しにくいこと。言語は文化を規定し、文化は言語を規定するというが、短歌などの場合を除いて、語の使用に筆者特有の意図がこめられることはめったにない。そのため、その語がどのような文脈で使われたのかを調べることで、時代の文化・習俗が自然と現れてくる。逆に偽書の場合、著者が気を付けたつもりでも、その時代には存在しなかった語句や用法が混ざってしまう。そして最後にデジタル情報であるという点である(デジタルといっても、本がコンピュータ上で使えるデータになっているという意味ではない。言語は本質的にデジタルなのである)。言語はデジタル情報であるため、容易に比較、一致、追跡などができる。森岡浩之は短編「夢の木が継げたなら」の中で人間の言語はアナログであるなどというと大間違いを犯していたが、言語といえばデジタルの最たる例である。もし言語がアナログ情報であれば、話者の声や発音が違うだけでコミュニケーションが取れなくなってしまう。
言語のデータとしての優位性を端的に示した話が本書に載っていたので紹介する。


……現在の新聞・雑誌を資料にして、三〇年前の擬音語・擬態語と比較してみました。
……(「ノコノコ」「ノッソリ」などは)いずれも動作がゆっくりとなされることを表す擬態語です。
これらの三〇年前にのみ見られる語は、現在でも忘れ去られたわけではありません。よく知っています。にもかかわらず、出現しないのです。調査資料は、三〇年前と現在とはともに新聞・雑誌であり、大差ありません。とすると、現在では、使用が避けられているのだと考えられます。現在では、遠慮深く音を出さずにゆったりテンポで行うという行動様式には価値がおかれていないためだと考えられます。
新聞社などの間で「ゆっくりとした感じの擬態語は使うな」と協定が結ばれているわけはないので、みな無意識のうちに使用を避けるようになってきたわけだ。時代の空気という曖昧なものが客観的な形で見えるてくるのが面白い。