攻殻機動隊SAC 2nd GIG」第一巻を観る。やたらと作画の密度が上がってて、本当に映画レベルの映像になってるのはいいのだが、脚本の青臭さが前作を遥かに上回っていてかなりゲンナリ
押井映画でも攻殻SACでも、主役陣が正義の味方という点では同じなんだけど、なぜこんなに違うように感じるのだろう。いろいろ考えたのだが、ようするに「攻殻SAC」での二課の連中ってのは「シバキあげ派」なんだよね。まぁ、押井映画にしろ攻殻SACにしろ、基本的に犯人側がシバキあげなのは同じで、帆場にしろ柘植にしろむしろ押井映画の方がシバキあげ度は高い。しかし、まず「攻殻SAC」においては敵対するはずの二課自体が実はシバキあげで「理想は同じだが方法は違うんだ」とばかりに正義に走り同じ事を始めてしまう。これでは犯人と同じ「人文系ヘタれ中流インテリ(by 稲葉)」であり、青臭く感じるのも当然というわけだ。
それに対して押井映画はどうか。それは、パトレイバー劇場版における後藤や南雲の発言を見ればよくわかる。例えば後藤は荒川が以前行ったシバキあげ発言に対し「欺瞞に満ちた平和と真実としての戦争。だがあんたの言う通りこの街の平和が偽物だとするなら、奴が作り出した戦争もまた偽物に過ぎない。この街はね、リアルな戦争には狭すぎる。戦争はいつだって非現実的なもんさ。戦争が現実的であったことなど、ただの一度もありゃしないよ」と答えている。また、南雲は柘植の「あの街(=東京)が蜃気楼の様に見える」という発言に対し「例え幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる。それともあなたにはその人達も幻に見えるの」と答える。
後藤や南雲(=押井)の基本的スタンスはこういうことなのだろう。「シバキあげ派の気持ちはわかる。だが、そんなものはリアルな世界に住む一般庶民には迷惑なだけだ」と。



しかし、なんだ。攻殻SAC世界での失業率を見るに、2030年の日本でも日銀は相変わらず引き締め気味らしいぞ。リフレ派の苦難は続く……