年金をシステム設計的に考える(3)

あれよあれよで2週間が経ってしまったので、そろそろ連載を再開。bewaadさんの提案に全面的に賛成しそうな今日この頃(笑)においては、これ以上続ける意味もないのではないかと思ったりもするのだが、まぁ何事も継続が大事ということで。

前回までのあらすじ

前回は、年金の目的が「老後の収入確保」であることを再確認するとともに、国家による「老後の収入確保」が本当に「成長・効率・分配」に繋がるのか。また、年金以外の方法はないのかという疑問が設定された。

今回は、この問題を考えてみたい。

国家による「老後の収入確保」の担保は「成長・効率・分配」に繋がるのか

まず、成長について考える。成長とは経済学的に言えば長期的な生産性の向上と言い換えることができるが、ここではもう少し広く「効用の総量が増加」するかという観点から考える。効用の総量を増加するにはどうしたらよいのかという点に関しては経済学を用いてもいまだ確実な方法はない。ただ、通常は「新しい技術・制度の発見」や「人的資源の質的向上」が成長を牽引すると考えられている。

常識的に考えて「老後に不安がある社会」より「老後に不安がない社会」の方が、個人の感じる効用は増大するだろう。平均寿命が延びている社会においてはなおさらではないだろうか。もし老後の不安をなくす制度が出来上がれば、まさに「新しい制度の発見」であり、成長のひとつの形で成されたと考えることができる*1

すなわち、国家による老後の収入確保は成長に寄与する。

次に、効率はどうか。誰しもが長生きをする可能性がある以上、老後の収入確保はほぼすべての国民に科せられた使命である。すなわち、老後の収入確保を国が行おうが個人が行おうが基本的には何も変わらないのである。

ただ、大きく違うのは、個人による資産の運用と国家による資産の運用ではリスクの大きさが違うという点であろう。「老後の収入確保」が担保されている状況では、国民全体でリスクが軽減され、現在の支出は増えるだろう。すなわち、この点ではパレート効率性は増す。

もちろん、個人で運用方法の選択をした方が市場の効率性を利用できるという意味で効率性は下がる面もあるかもしれない。だが、老後がやってくるのは人生の最後尾であり、その間個人の力で資産価値を守り続けていくのは困難である。現実に生保の倒産などがあることを考えると、長期の保険制度は市場の失敗が起こる分野ではないかと考えることも可能である。

国家による老後の収入確保は効率を上げる点も下げる点もあるので一概には言えないが、効率性が大幅に下がるということはないようだ。

最後に分配について考える。分配とはどれだけ平等性に寄与するかということである。しかし、ここでの焦点は「老後の収入確保」である。純粋な賦課方式年金だと個人の生涯賃金の異時点間配分を行うだけであり、必ずしも所得の再配分をする必要はない。

すなわち、国家による老後の収入確保は基本的に分配の問題とは関係しないということが言える。

こう考えると、損得と踏まえたとしても、国家による老後の収入確保を行う価値はありそうだということになる。

年金以外の方法はないのか

老後の収入確保を目的とした場合、必ずその原資は必要であり、税金にしようとどうしようと、結果的には年金という枠の中に収まってしまう。

もしかすると他にも方法があるのかもしれないが、私の思いつく範囲だと次のようなものくらいである。

  • 還暦を迎えたら山に捨てる
  • 還暦を迎えたら家族で煮て食べる
  • 還暦を迎えても強制労働により賃金を稼がせる

まぁ、どれも今となっては非現実的な話であるので、実現はしないだろう(当たり前)。本連載では、何も考えずに年金だけに焦点を絞りたい。

次回予告

次回からは、本筋であるUMLを使った年金制度の分析に入る予定である。

*1:ただし、ここではその制度のために発生するトレードオフの問題は意図的に無視している。ここでは、他に差異がないのであれば「老後に不安がある社会」より「老後に不安がない社会」の方が良いとだけ言っている