幸福とは何か

結局のところ幸福とは何なのだろうか。

例の議論ではベンサムの話が出ていたこともあり、哲学者とか功利主義者が幸福について何を言っているのかをちょっと調べ始めてたのだけど、それって幸福の要因の説明なんじゃないのとか思うのが多かったし、結局誰が正しいのかというのを決める基準がない。

そもそも、私は哲学なんて作業仮説の塊だと思ってるし、はっきりいえば嫌いでなのである。

そこで思いついたのは脳科学の知見を使うことだ。人間の幸福なんてしょせんは脳内の生理的作用の結果に過ぎないわけだから、それに従えば間違いはないはずである。というわけで、昨日早速本屋に行って確認してみた。

現段階の脳科学で人間の幸福感に関してすべて解明できているわけではないけれど、ある程度のことはわかっているそうだ。

幸福感に関係することは、二つに分けられ「快」と「不快」の二種類がある(ベンサム、すげー)。人間は、経験に基づいて「欲求リスト」と「嫌悪リスト」の二つを持ち、前者のリストに当てはまる現象に出会ったとき「快」の感情を、後者のリストに出会ったとき「不快」の感情を持つ。すなわち、人間は「快」と「不快」の二つの感情を持っていることになる。

よく人間は快の感覚として食欲が満たされたときと文化的な欲求(絵を見たりといった)が満たされたときを別のものと考えがちだが、脳の中では同じように処理されるようだ。財・サービスの場合には、まず「財・サービスが欲しい」という嗜好が「欲求リスト」にあり、その欲求が満たされたとき、ご褒美として「快」の感覚がもたらされる。絵を鑑賞する場合でも、見る人が求めるある意図を満たすような情報が対象の絵画からもたらされる場合「快」の感覚がもたらされる。

「不快」に関しても「快」と同様で、恐れや不安などといった様々な要素も最終的には同じところに行き着くそうで、現在のところこれらの感覚をどこで区別しているのかは判断がつかないそうだ。また、病は気からという言葉があるが、これはまったく正しく「嫌悪リスト」に当てはまる状況が起こった場合、実際に末端神経まで刺激が行き体調を悪くする。

ここで問題は「快」と「不快」は足し算できるかなのだが、基本的にはできないと見るべきであろう。ここで基本的にはと断ったのは「快」の感情がもたらされたとき、「不快」の感情を抑制する働きが存在するからである。宝くじで一億円あたったと同時に、家が全焼した場合、幸福と感じるのか不幸と感じるかは一概には言えないと思うが、そのような研究は残念ながら見つけることができなかった。

すなわち、幸福の条件としては、心が満ち足りた状態となり「快」が最大化しており、「不快」が存在しない状態にいるされているということになる。

これらの知見を元に幸福の定義をするとこうなる(←トリビアの種かよ)。

幸福
不自由や不満もなく、心が満ち足りている・こと(さま)

って辞書と同じじゃねえか。うーむ、国語学者えらいなぁ。