そもそもだ

政治家なり官僚なり経済学者なりエコノミストなりマスコミなりがその専門的知識を生かしてきちんと国家政策なり議論なりをやっててくれれば、技術者なんぞが経済の心配なんぞする必要はないのだ。

本来、やるべきことをやるべき人がやっていないから、こうやって外野が経済の心配して、不用意なことを言わなければならなくなる。「へへーん、フリップフロップも知らないくせに、コンピュータについて語るなよ。教科書嫁!」とか言う前に、語る必要もないくらいコンピュータを自然な存在にすることが技術者の使命であろう。

書籍などでの論説などで政策に影響を与えようとしているリフレ派経済学者諸氏には言いがかりになってしまうのであるが、経済について偉そうに語りながらその実専門知にも基づかず政策を誤る(あるいは、誤らせ)専門家たちには本当に頭にくる。

最近話題の姉歯建築士の行為はひどいとは思うものの実質的な被害は微々たるものである。しかし、経済政策の失敗は全国民に被害を与えるし、実際失業や自殺率の増加にも大きく関与している。言い方を変えれば、殺人政治家、殺人官僚、殺人経済学者、殺人エコノミストというのは世の中に大量に溢れているということなのである。

リフレ政策は非伝統的手法という言葉が良く使われる*1が、それは本当なのだろうか。期待に期待するという点を除けば従来型の金融政策であり「マクロ経済学はどこまで進んだか―トップエコノミスト12人へのインタビュー」や「大恐慌を見た経済学者11人はどう生きたか」を読む限り少なくとも1990年時点ですでに経済学の先端では支持されて当然の内容ではないだろうか。なぜ、こうも日本の経済学者からの支持が遅れたのか理解不能である。

あぁ、なんだかまとまりがないな。単なる愚痴ですよ。悪うござんしたね。

*1:反リフレ派だけでなく、リフレ派の経済学者も良く使っていた