弾氏の「群盲成長をなでる」を読む

なんというか、ありがちな批判という気もするが、いくつか気になったので突っ込みをいれてみる。

面白いことに、お金というのは質量=エネルギーのような保存量ではないにも関わらず、ミクロではあたかも保存するように扱われる。

インフレやデフレによって増えたり減ったりするので保存はしないぞ。日本国が消滅した瞬間に価値ゼロになるかもしれないし。お金というのは国家が担保する信用取引だと考えるべきだと思うな。ようするに財・サービスを買う権利。

要はその「成長」を計る指標として「経済」、というより「お金」というのはどの程度適切か、ということだ。

経済学的な意味での成長は財・サービスの生産効率の改善だから、金額ベースで計るのは妥当。人間の内面的な成長とか、エロ本を読んでひとつ大人になったとか、そういうものはそもそも対象にならない。GDP=成長かと言えば必ずしもそうとは言えない(多くの漏れがある)が、成長率という基準でみるならば過去との比較なので大きな問題とはならない。

しかしながら、成長=幸福かといわれればそのリンクはない。「幸福の政治経済学―人々の幸せを促進するものは何か」にあるように、発展途上国では成長=幸福だが、先進国では発展途上国ほど大きな説明力を持たない(大きくないだけで成長した方が幸福に繋がるのは当然のこと)。そういう意味で経済学を批判するのであれば、少なくとも間違いではないかもしれない。

国内通貨で計った数%程度の経済成長が、為替で簡単に「吹っ飛んだり」する。

為替で吹っ飛ぶのは企業の利益であって国内の生産性ではない。単にその生産性の結果として得られた資源によって購入できる対象国の財・サービスが増減するだけ。しかも、日本が取引しているのはアメリカだけじゃないし。代替効果もあるので、高くなった商品を国内で作り始めたり、もっと安い国から買ったりするだけかもしれない。

私は、「お金」というスカラー量では不十分だという仮説を立てている。

少なくとも成長を計るには十分だと思われ。