学問のポテンヒット

開発プロジェクトの炎上に繋がる直接的原因のひとつにポテンヒットと呼ばれるものがある。

ポテンヒットというと野球用語として知られボールが内野と外野の間に「ポテン」と落ちてしまうことを言うが、プロジェクトにおけるポテンヒットも同様に担当者不在の対象業務や作業が発生してしまい、機能がポテンと落ちてしまうような状況を指す。

ポテンヒットが発生する理由は、概ね下記のいづれかである。

  • 対象となる業務や作業が想定されていなかった
  • 担当者を設定したつもりが、受け持った担当者は対象となる業務や作業が自分の担当範囲だと思っていなかった

前者は見つけようにも探す糸口もないので仕方ない面もあるが、後者は気を付ければ対応できることではある(だが、これが難しい)。

後者の具体的な例としては、ある人をハードウェアからアプリケーション・フレームワークまでお願いするつもりでシステムの共通基盤の担当にしたが、受けた方は共通規約の作成しか念頭にないというような場合である。プロジェクト全体を見渡してみると抜け漏れた作業を受け持てる人はその人以外にいないのはすぐにわかるのだが、自分の仕事は増やしたくないのが人情であり、結局その抜け漏れた部分が考慮されることはない。

この話、先日の学者先生の話にも共通する事柄なのではないだろうか。

学問の啓蒙活動は学者の仕事である。なぜか。第一に他に担当者がいない、第二に人々に知的貢献が行われない研究に賃金が支払われるのはおかしなことであるからである。後者のロジックはわかりにくいと思われるので説明を加える。賃金とは財・サービスの提供、すなわち他者の効用の向上に寄与することにより成立するものである。誰かが学者の研究に対しお金を支払っているのであれば、それは何らかの効用を高めるような事柄があるからであろう。もちろん私立大学においてはオーナーは企業的であり、その事柄が学費の獲得に繋がるような、例えば学生への教育や大学の人気を高めるために名のある学者を優遇するようなことだったりするかもしれない。だが、国立大学はもちろん私立大学においても国から支給される補助金の額は多額である。おそらく、暗黙的に社会に貢献するような研究の公共性が仮定されているのであろう。すなわち、学者には多かれ少なかれ社会への知的貢献が求められているのである(もし、学問に公共性がないのであれば、税金を投入する意味はない。その場合には、多くの作家と同様自分の力で読者を獲得し賃金を稼ぐことになる)。

このようにマクロな視点で考えれば学者にとって啓蒙活動は当然の行為であるにも関わらず、実際には学者の仕事は(場合によっては極めて少ない数の)同僚に向けて学術論文を書くことだけであるとする風潮が見られる。専門知識を有するのは学者だけにも関わらずである。

学問におけるポテンヒットとプロジェクトにおけるそれの最大の違いは、プロジェクトにおいてはただちに炎上し問題が明らかになるのに対し、学問においては即座に明らかにはならないことである。学問におけるポテンヒットにより発生した穴は徐々に広がり、トンデモ知識の温床となる。そして結局はモラルハザードの誤用などの形で学者自身に跳ね返っていくことになるのだ。