経済学の目的

何事も目的がないとぶれ易い。本職の経済学者がえてしてこの大不況を前に本質的とは言い難い枝葉の議論に終始してしまうのは、案外大学に入って以来ずっと経済学の内側に居り、より専門に特化することを求められるが故に経済学自体の目的などといった大枠の議論に無頓着になってしまうからなのかもしれない。人々が経済学者に求めていることは、足元の不景気から脱却する方法を示すことで、経済学が間違っていると喧伝することでも、マクロ経済政策が役に立たないことを示すことでもないだろう。

閑話休題。たまにふと経済学の目的って何だろう、と疑問に思うことがある。数学であれば定義と無矛盾な関係から何が言えるかを突き止めることであろうし、物理であればこの世界の自然現象に関するメカニズムを解明すること、工学であれば役に立つものを作ること、が目的になるだろう。

経済学に関しても安直に考えれば、この世界の経済現象に関するメカニズムを解明すること、となるのは自然な考えだ。たしかに近年話題の行動経済学とか実験経済学を見るとそれが目的でないとは言い難いわけだが、少なくとも旧来の経済学は必ずしもそれのみが追求されてきたわけではない。マンキューの「科学者とエンジニアとしてのマクロ経済学者」にも通底する話題であるが、経済学には「資源の最適配分」という工学的な至上命題が常に横たわっているからである。

経済学においては、「経済現象に関するメカニズムの解明」と「資源の最適配分」という二つの目的があるように見受けれられる。しかも、後者にかなり重点が置かれている。もし、経済学が経済科学と経済工学という二つの分野に分かれていたら非常にわかりやすかっただろうが、そうなっていないのにも理由があるのだろう。

第一に、経済は複雑な事象であるが故に完全な解明はできない可能性が高く、また完全な解明が本当に求められているかも甚だ怪しいものがあるということが挙げられるだろう。もし経済現象を完全に解明できたとしても、予測に必要なパラメータは無数にあるだろう。そのパラメータに与えるデータを集めるだけで人類の歴史は終わってしまうかもしれないし、そんな複雑な方程式では扱いに困るだけだ。

ロバート・ソローは、次のように語る。

すべての理論は仮定の上に組み立てられるが、その仮定は真実とはいいがたい。それこそが理論を理論たらしめる。理論をうまくつくるコツは、単純化のための仮定をおくことはやむを得ないとして、最終の結果がそれにあまり左右されないようにすることである。

すなわち、経済学に求められるのは、精巧な標本ではなく、現象を決定的に特徴付ける少数の要素とその関係を探し出すことにあると言える。しばしば、経済学は仮定の非現実性を非難されるが、仮定の非現実性が結論に大きく影響するのでない限りそのような批判は意味がない(だからこそ、行動経済学者は見つけた現象がマクロな視点で見ても残ることを強調せざるを得なくなる)。

第二に、資源の最適配分ができてしまえば、その他の経済現象に関するメカニズムの解明など不要になってしまう。経済学者は景気が悪くなると引っ張りだこになるが、逆に言えば景気の良い時には不必要だと世間からは思われているのである。経済学においては資源の有限性が仮定されるが、それは資源が現に有限であるからだけでなく、資源が無限であれば経済学など不要だからに他ならない。

そして、資源の最適配分を行う方法としては解析的な手法だけでなく、アルゴリズム的な手法も使うことができる。アルゴリズム的手法を用いるならば、細部には無頓着でも構わない場合がある。

ようするに、経済学はベストを尽くせないことが端から明らかであるが故に、「資源の最適配分」という至上命題に必要な範囲内で「経済現象に関するメカニズムの解明」を行うというセカンドベストを指向するのであり、だからこそ科学と工学が渾然一体とした学問体系になっているのではなかろうか。