山森亮、橘木俊詔著「貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか」を読む

最近、労働系の学者への苛立ちは募るばかりなのだが、この本も読んでいて何度か投げ捨てたい衝動に駆られた。

何が問題か。まず、景気に関する言及がほとんどない。もしこの本が高度成長期に出された本であるならば、たとえそうであっても問題はない。しかしながら、今現在の日本は未曾有の不景気にされされている。日々、失業者が増え社会保障の財源となる税収が少なくなっていく中、議論すべきなのは景気が回復してもなお貧困者が存在し続けることなのだろうか。

そのような批判はさておくとして、本書の主題である社会保障改革か、ベーシックインカムか、という議論であるが、どうも橘木氏の発言が怪しい。橘木氏の議論はいつもそうだが調査や分析はまともなのに主張だけがリベラルに歪む。

例えば、大竹文雄氏の単身者・高齢者の増加による見せかけの経済格差であるという分析に対し、橘木氏は「一つのグループ内部における所得分配の不平等が進んでいるという声があるけれども、そういう事実は社会全体ではあてはまりませんと言いたい」と反論する。しかし、なぜ社会全体にはあてはまらないのか、という事実の裏づけにはまったく触れない。

私は大竹氏の主張の方が説得力があるように思う。日本は80〜90年代はジニ係数が低く格差はあまり顕在化していない(そして格差は広がったとは言っても、今でも比較的低い)。その状況下で少子高齢化と不況が続いたらどうなるか。高齢者の所得はそれまでの人生の積み重ねの結果であるので、元々格差は大きい。高齢者が増えれば格差は広がるのが当然である。また、不況が続けば重要な新卒採用期に良い職を見つけられず結果、長期的に高い所得を得られない。日本で格差が広がったのであれば、それは単身者、すなわち若年の労働者と高齢者の中で発生するであろうことは容易に想像ができ、大竹氏の分析結果と整合的である。

一方、山森氏の主張の仕方は経済学者らしいロジカルなもので、また現場での経験も踏まえた説明には説得力がある。しかし、ベーシックインカムを月15万円と言われてしまうとギョッとしてしまう。

なぜギョッとしてしまうかと言えば、私自身もし月10万円定期的にお金が手に入るならば仕事をやめてニートになってしまおう、といつも皮算用しているからだ。山森氏の主張は、それを5万円も上回るのだから、私にとっては非常にありがたい主張である一方で、この金額だと働かない人は大量に出てくるだろうと考えざるを得ない。

特に私と同年代以下は上の世代に比べ仕事に対する情熱は薄くなってきている。ゲームやネットなど金のかからない大衆娯楽を多く知った若者にとって、億万長者になり仕事に忙殺される毎日よりも、仕事もせずネトゲ廃人になる生活を選択するかもしれない。

私もベーシックインカム論者であると言ってよいと思うが、飯田泰之氏が述べるような5万円あたり、すなわち「死なない水準」に設定する方が適切であろうと考える。

橘木氏と山森氏の一番大きな考え方の違いは、「働ける人にもお金を払うべきか」という点である。おそらく、これはある程度思想の問題でもあるが、山森氏の言うように「誰が働ける人なのか誰にも判断できない」という現実的な壁を考えるならば、ベーシックインカムは実務的な制度設計の話であるとも言える。

たしかに橘木氏の言うように働ける人にも給付すべきでないという考えのは、「働かざるもの食うべからず」という世間知を考えると理解できる(一方で、橘木氏の経済学者としての適性に疑問を持ちたくなるのだが)。しかしながら、現在の不況下では多くの人が働く能力を持ちながら、職に就くことができないでいる。橘木氏の主張はそれらの失業者は死ぬべきであるとあると言っているのと何ら変わりない。また、現在の生活保護がそうであるように、一度生活保護状態になってしまうと働かないことに強力なインセンティブを与えられ抜け出すことが困難になる。

もちろん、橘木氏は、もっとスクリーニング条件を追加してやればいいのだ、と主張するだろう。しかし、山森氏も言うようにそれに失敗し続けてきたのが現実なのである。

本書で取り上げられる内容は、それぞれ興味ある話題であり、共産主義者は「働かざるもの食うべからず」だから失業者に厳しいなど、個別のトピックでは面白いものもあったが、対談する両者の主張に対し違和感を感じずに読むことができないのが残念である。

貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか

貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか