議論したいだけの人

http://anond.hatelabo.jp/20100221081435

とか

http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/32325439.html

なんというか、もしかしてこの人達は日本の景気が回復することには興味がないのではなかろうか、と思えてならない。別に指摘が間違っているというつもりはない。だが、それを指摘することに何の意味があるのか、さっぱりわからない。

このように書くと不誠実な議論だと感じる方もいるかもしれない。しかし、もし論者の目的が日本の景気回復させることにあるのだとするならば、このような論旨にはならないように思える。

例えば、リフレ政策に悲観的な立場に立ったとして、財政政策の効きの悪さは、小渕政権下で散々実施されわかっている話だし、生産性の向上で云々などさらに論外だ(なぜ、需要制約による需給ギャップを生産性の向上で埋められるのか、だれか説明してほしい)。ようするにリフレ政策に悲観的ならば、何もしないという結論になる。金子勝が言うように「諦めるしかない」わけだ。

それに対しリフレ派は、リフレ政策ならばどっちに転んでも損はしないよ、と主張している。リフレ政策が有効ならば、デフレから脱却できるし、リフレ政策が無効ならば無税国家が運営できる。そして、本当にリフレ派の主張が間違っておりどちらの効果も起こらなかったとしても(バーナンキ背理法は、単なるノーフリーランチの言いかえなのだから、そんなことはないのだが)、諦めろという主張に等しくなるだけである。

ようするに我々日本人に選択肢は残されていないということだ。リフレ政策に賭けてみるか、諦めるかのどちらかしかない。

また、理論的には指摘の通りだとしても、2003年には実際にあの程度のコミットメントとも言えない量的緩和で効果が出てしまった。そして昭和恐慌時の実績もある。これは、理論的にはどうあれ、インフレ率に影響を与えることができる組織が、それらしい行動を取り続ければインフレ期待が発生してしまうことを意味している。流動性の罠的状況ではあるが、頭のてっぺんまで罠に嵌っているわけではないということだ。

例えば、クルーグマンの議論に従うならば、一時的な金融緩和は無効である。しかしながら、実際に日銀が45兆円の国債引き受けをしたとして、インフレ率がぴくりとも動かない、とはとうてい思えない。日銀がいくら信用できない組織だとしても、国債引き受けした翌日に全額をオペで吸収することは考えにくく、実際に引き締めに動くにはしばらく期間があるだろう。結果的にある程度の期間引き締めないという、暗黙的なコミットメントが自然と発生してしまう。事実、インフレ期待を表すとされるブレークイーブンインフレ率は日銀の政策に過敏に反応する。

このような状況で、デフレから脱却するためのインフレ目標とインフレ期待を安定化させるためのインフレ目標を厳格に区別する議論に何の意味があるのだろうか。インフレ期待の安定化には、当然デフレからの脱却も含まれており、流動性の罠からの脱却という課題がおまけとして付くだけのことである。

私は工学部出身であるから、目的のために使えそうなものは何でも使うべきであると考える。結論が出るまで考え続け、気づいてみたら国民が死に絶えていたなんて未来はまっぴらごめんだ。

少々感情的な文章になってしまったが、いったい何年議論を続けりゃ気が済むんだと、ここ数年虚しさを感じることが多い。皆様が感じた疑問は、いちごびびえすの過去ログやら各種FAQやらを順番に読んでいけば全部解決しますから、もっとよい代替案を持ってないなら黙ってろと言いたくなってくるのが正直なところだ。

[追記] 全員が納得できる結論がでるまで議論し続けるべきだ、という考え方は資源は有限であるという経済学の基本的な原則に反する行為であり、とうてい経済学的に正しいとは言いがたいという考え方もあるな。