将来世代の負担を考える

日本の積み上がった財政赤字に対し、昨今、「財政赤字は将来世代の負担になるので増税の方が適切である」とする言説が主に日本の経済学者を中心にしばしば聞かれる。

最近知ったのだが、この「将来世代の負担」という言葉には、概念の異なる二つの考え方があり、どうも経済学者間でも認識に齟齬があるのではないか、と思われる節がある。

まず、ひとつの考え方は古典的な公債負担論以来の伝統的なものであり、世代を現在時点と将来時点にわけて解釈するものである。この概念においては、議論はあるものの将来世代の負担は発生しないとする見解が主流である。ケインズ的公債負担論では、将来時点では利子の支払いが起こる一方、受け取る人もいるのだから、負担は発生しないと考える。それに対しバローは合理的期待形成の観点から、リカードの等価定理を援用し、将来増税されるのならば、今貯蓄をして備えるであろうから、増税国債発行に違いはないとする。

もうひとつの考え方は、世代重複モデルに依拠するものであり、現在世代と将来世代には重複があり、それぞれ前半で働き、後半では働かないという仮定をおいている。この前提において現在世代は、国債発行により享受した便益を受けつつ、償還時に将来世代から資源を奪うことになる。この場合、将来世代の負担は発生してしまう。

この二つの考え方は矛盾しているように感じられるかもしれないが、実際には矛盾していない。現代世代、将来世代を構成している人々が異なるからである。後者の将来世代の負担を前者の枠組みで語るなら「公債を発行すると将来、若者から老人への所得移転が発生する」ということになる(若者も老人も国民には違いないから、国家という単位で見ると負担は生じず、単に分配の問題が発生しているだけということになる)。

「将来世代の負担が発生する」ので「増税すべきだ」という発想は、後者の見解に基づくものであると思うが、だとすると、やや違和感を覚える。なぜなら、この問題は成長、安定化、再分配で言えば最後の再分配の問題であるからだ。現在の財政赤字が膨大であることは疑問の余地はなく財政の維持可能性こそ議論される内容である。そこに再分配を持ち出しても(感情的にはともかく)あまり意味があるようには思えないし、「将来世代の負担」という語感からは誤解を招きかねない内容のように思える。