山本昌弘著「会計制度の経済学」を読む

今、ちょっとだけ会計に絡んだ仕事をしていることもありつつ、以前のびたさんより頂いたご批判への回答ができるかもと思いながら読んでみた。

先に批判に関する部分だけ書いてみる。

本書で「会計制度は必要か否か」という論点が取り上げられている部分は少ないが、いちおうP116〜118にかけて記載がされている。その記載を読む限り、明確に結論は出ているわけではないが、ポスト・ケインジアンファイナンスの分野より市場が常に効率的ではないという実証結果があり制度的な市場サポートはやはり必要であるという主張もあるとのこと。

ちなみに私は、財務諸表がなければ経営者ですら社内の経営状況を把握できないのに、社外からしか情報を得られない株主が会社の経営状況を把握できるわけもなく、会計制度は絶対に必要であるという立場である。ただし、実際に長期的には効率的市場仮説が成り立っていることを考えると、会計制度が市場に与える影響は短期的なものに違いなく、しかしながらエンロンのようにいつかは潰れる企業が早期に発見され排除されたり、市場原理が働かない企業内部において擬似的な価格機構を働くといったことが履歴的な効果となって生産性の向上に繋がっているのだと勝手に想像している。

閑話休題。本書は、歴史的な関係性や経済学的な分析手法を会計学に取り入れた例を示しながら会計制度の経済学を解説した本である。本書で説明されているように経済学と会計学は近い関係にありながら、まったく異なる発展を遂げた。そのため、会計制度の経済学という分野自体が新興であり、多くの議論は積み残しになっているようだ*1。そのため、私のような素人が読んでも「そうだったのか」という驚きは少なく、むしろ会計とは何だったのかわからなくなってくるくらいである。

いくつか面白い話題もあったので紹介しておこう。

総費用曲線はS字ではない

経済学では、総費用曲線はS字として説明される*2。だが、本書によればこれは事実ではないそうだ。会計上ではCVP分析のように直線だが、1950年代に大論争があり理論的にも実証的にも直線であるとの結論が出ている。教科書的に言えば、総費用曲線がS字でないと供給曲線が導出できないので非常に困るのだが、例えばポスト・ケインジアンは「再投資に必要な原資を賄えるように生産量を決め」ることで供給曲線が導出できると主張しているとのこと。

会計学でも機会費用

会計と経済学では費用概念が異なるというのは良く知られた話だが、コースの定理で有名なロナルド・コースは、会計においても重要なのは機会費用であると主張していたらしい。

うーむ、どうやって機会費用を計上すればいいんだ。システムが複雑になるので、そういう主張はやめてほしいのだが(w

限定合理性

会計制度の経済学においても、基盤とされているのは合理的個人ではなく限定合理性である。やはり細かい話題になると、合理的個人では不適切になるということなんでしょうなぁ。著者の「そもそも人間行動の合理性に限界が存在するからこそ、意思決定において不確実性やリスクの分析が重要になる」という言葉はごもっともである。

会計制度の経済学

会計制度の経済学

*1:ある意味おいしい分野かも

*2:といいつつ図はいつも逆S字だったりするのはなぜだ

弾氏の「群盲成長をなでる」を読む

なんというか、ありがちな批判という気もするが、いくつか気になったので突っ込みをいれてみる。

面白いことに、お金というのは質量=エネルギーのような保存量ではないにも関わらず、ミクロではあたかも保存するように扱われる。

インフレやデフレによって増えたり減ったりするので保存はしないぞ。日本国が消滅した瞬間に価値ゼロになるかもしれないし。お金というのは国家が担保する信用取引だと考えるべきだと思うな。ようするに財・サービスを買う権利。

要はその「成長」を計る指標として「経済」、というより「お金」というのはどの程度適切か、ということだ。

経済学的な意味での成長は財・サービスの生産効率の改善だから、金額ベースで計るのは妥当。人間の内面的な成長とか、エロ本を読んでひとつ大人になったとか、そういうものはそもそも対象にならない。GDP=成長かと言えば必ずしもそうとは言えない(多くの漏れがある)が、成長率という基準でみるならば過去との比較なので大きな問題とはならない。

しかしながら、成長=幸福かといわれればそのリンクはない。「幸福の政治経済学―人々の幸せを促進するものは何か」にあるように、発展途上国では成長=幸福だが、先進国では発展途上国ほど大きな説明力を持たない(大きくないだけで成長した方が幸福に繋がるのは当然のこと)。そういう意味で経済学を批判するのであれば、少なくとも間違いではないかもしれない。

国内通貨で計った数%程度の経済成長が、為替で簡単に「吹っ飛んだり」する。

為替で吹っ飛ぶのは企業の利益であって国内の生産性ではない。単にその生産性の結果として得られた資源によって購入できる対象国の財・サービスが増減するだけ。しかも、日本が取引しているのはアメリカだけじゃないし。代替効果もあるので、高くなった商品を国内で作り始めたり、もっと安い国から買ったりするだけかもしれない。

私は、「お金」というスカラー量では不十分だという仮説を立てている。

少なくとも成長を計るには十分だと思われ。

entityの数がデータベースが生み出す情報量の限界を決める

なるほど。

n個のカラムを持つentityは、n次元でしかないが、それを1個のカラムを持つn個のentity+対照表にすることで最大組み合わせ分の次元=nCr次元を持つことができるということだろうか。

しかし、やはりデータベース設計は哲学的にならざるを得ないのか。業務の概念構造をデータ構造にマッピングしているのだから、考えてみれば当たり前のことではあるが。

しかし、そうだとすると結論はひとつ、「唯一無二のデータベース設計などというものは存在しない」ということだな。これは「ツチヤ教授の哲学講義」に書かれているように哲学という学問が辿り着いた結論であるのでもはや疑問の余地はない。では、良いデータベース設計や悪いデータベース設計などないのだろうか。いや、そうではない……うむ、次回はこのネタでいくか。

[追記] いや、n次元と言うのはおかしいな。ここでいうn個のカラムを持つentityはキーに対する従属性を持っているはずだから1次元しかない。なんだかよくわからなくなってきたぞ。もう一度考え直してみよう。