経済学の成立に最低限必要な要素ってなんだろ

経済学の成立に最低限必要な要素ってなんだろう、と考えたとき、おそらく次の二つだけあればよいのではないかと思う。

経済学=レッセフェールと言われることが多いが、それは結論のひとつであって、学問が成り立つための前提条件でもなんでもない。だから、レッセフェールの否定は経済学への貢献となりうる(独占的競争や情報の非対称性の議論などまさにそうだろう)。

前者が成り立つのは自明だが、後者は必ずしも成り立つわけではない。だが、まったく成り立たないわけでもない。もし後者が成り立たないならば、我々はブラウン運動のようにランダムに行動しているか、インセンティブとはまったく異なるメカニズムによって行動していることになる。これは人がインセンティブにに従って行動する、という仮定以上に変な仮定だ。

すなわち、人の行動メカニズムは前述の三つのメカニズムの混在によっていると思われる。再度整理すると次の三つだ。

さて、人の行動原理を分類できた以上、この三つの行動原理が軽重が経済学の成立に重要な影響を与える。ここで考えるべきは、このうち2番目の条件は無視してもよいということである。なぜならランダムである以上、対象の人数が増えれば増えるほど相殺され、大域的な影響は与えないからである。

すなわち、3番目の行動原理による部分の特定が重要となる。この部分を除いた部分が経済学の適用範囲と言ってもよい。実はこの部分を研究しているのが、近年話題にのぼることが多い行動経済学であったりするわけだ。そして、その結論としては、人間には物理的制約がありインセンティブとは異なるメカニズムによる行動が少なからず明らかにされている。しかし、その一方で、それらの行動は特定の既知の状況下で発生するのであって、その適用範囲は限られる(=経済学の適用範囲は極めて広い)ことをも明らかにしているのである。

これに関連し、大昔の効用と幸福の話を思い出すに、私はフライの本に記載された効用と幸福の区別がきちんと整理できていなかったように思う。今から考えれば、フライの言う効用とは外的報酬によるインセンティブ、幸福とは外的報酬+内的報酬によるインセンティブと定義すべきだったのであろう。そう考えたとき、既存の経済学が外的報酬しか考慮していないという批判は間違ってはいなかったとは思う(まぁ、内的報酬を考慮しはじめると、とたんに客観的な検証が困難になるので、そのことを殊更問題視するつもりもないが)。