古典を読む意味

「じゃあ理系にとって古典は意味がないのか?」と気になって。

 通俗的科学史科学哲学科学社会学風にいえば「通常科学では教育は教科書読ませて練習問題解かせて、で基本進みますよ」となるわけだが、実際普通の物理学徒が『プリンキピア』紐解いたりはしないんだろうが。

 でもそういうのって程度問題じゃね? 教科書だって常に最新のがベストってわけじゃなく、古典的に読み継がれる教科書があるし。いやそれだけじゃなく、繰り返し読み直されている原著論文ってのもあるんじゃね?

 そういう「教科書で再三お目にかかってるけど改めて原著を読む価値がある論文」の条件って、なんだろう。

矢野さんのブログでのこのコメントって、味読する価値があるよね。

古典を読む意味 - shinichiroinaba's blog

で、

博士課程在学中から多くの先生方に「古典の重要性」は教えていただいてきたのですが、昨今のポスドクのおかれた状況は世知辛く、古典をひも解いて学問のより深い側面に思いを馳せることがなかなかできず大変に申し訳ないく思っております。AIC, ABIC, SBICの誤用に着いてもおっしゃる通りだと思います。ご意見を本当にありがとうございました。

ウィーナー (1961), サイバネティックス - ハリ・セルダンになりたくて

を読んで、理系における古典を読む意味って、開発フェイズにおける要件定義書を読む意味と同じだよなぁ、と思うのであった。

古典というのは、先駆的な業績であるわけだから、今では当たり前になっている概念や理論が「なぜ生み出されなければならなかったのか」書かれている場合が多いであろうことは容易に想像がつく。

現在の視点から見れば、まわりくどかったり、間違っていたりする部分もあるので、教科書として使うには適していないが、その概念や理論が必要であった動機はむしろ明確にわかる。

いや、単に詳細設計からプログラムを起こす時に、いったいこの機能がどういう使われ方をするのかさっぱりわからん、ということがよくあるので、似たような話だよなぁ、と思っただけなのだが(むろん要件定義書に書かれているとは限らなかったりするのが悲しい現実ではあるwww)。