経済学は何であって何でないか

人間は経済学の理論通りには動かないのだということは、経済学の世界では「それを言っちゃあおしまい」なところがあるようで、だから信用しないのである。

経済学不信 - 猫を償うに猫をもってせよ

経済学不信。多くの人がそうだろう。私もそうだった。工学系の私が経済学を学び始めた理由は、テレビでは多くのエコノミストが出てきて何だかんだ主張する一方で、いつまで経っても景気が回復しないことへの苛立ちがあった。人間の行動は複雑でありそんなものわかるわけがない。それをわかったかのように語る経済学という学問はロクなものでないに違いない。

もちろん、これは経済学の内容を知る前の話である。経済学を知った後に、経済学不信の人が吐露するその理由を聞くといつも思うことがある。「それは経済学ではない」、と。どうも世間の人が思う「経済学」と、経済学者の考える「経済学」の間にはずいぶん隔たりがあるようである(そのうえ、マスコミに登場するエコノミストの半分は経済学を知らないでしゃべっているのだから、印象はさらに偏向する)。

では、経済学とは何なのか。まず、経済学の目的について説明が必要である。

経済学とは何かを考える上で、物理学に代表される「科学」に対する先入観が悪さをする面もあるようだ。一般の人が「科学」と聞いた場合、それは自然科学、特にニュートン力学を想起することが多い。その世界観は、科学=現実を数式で表現したもの、と言い換えてもよい(科学哲学を学ぶと、我々の持っている「科学観」がいかにあやふやなものであるか思い知らされるが、それは置いておこう)。しかし、経済学がどういう学問であるかを考える上では忘れた方がよいと思う。

自然科学の目的は、自然現象のメカニズムを解明することである。では経済学は経済現象のメカニズムを解明することにあるのか、といえば必ずしもそうではない。

経済学の目的はむしろ「資源の最適配分」にある。この世界に存在する資源は有限である(ここでいう資源には時間や人的資源なども含まれることに注意)。資源が有限である以上、有効に使わなければならない。過去、ソ連では共産主義体制が取られていたが、常時食糧不足が発生していた。通常、食料不足は産出が低下したためと思われがちだが、実際には流通の問題が大きかったそうだ。都市部に届ける前に腐ってしまったり、途中で放置されてしまったりしていたようである。大量に生産できたとしても、地方で必要とされる量は限られているのだから、都市部に運ぶことができないと意味がない。このような資源の無駄遣いをなくす方法を考えるのが経済学の目的である(それ故に、経済学は数学的には制約付き最適化問題の解法に過ぎない、と言う人もいる)。

よく、経済学者は資源が無限にあることを前提にしていると批判する人がいるが、ずいぶん間の抜けた話である。資源が無限にあるのなら、全世界の人に好きなだけ欲しいものを与えることができるのだから、そんな世界では経済学などそもそも不要である。

さて、経済学と言えば、需要と供給の法則である。アダム・スミスの「神の手」という言葉で有名なアレだ。経済学の批判と言えば、この法則を題材にその非現実性を挙げるものも多い。現在においても、この法則は経済学の最も核となる考え方である。というよりも、経済学の歴史は、この法則では説明できない例外ケース(市場の失敗)についての研究の歴史であると言っても過言ではない。

余談だが、アダム・スミスは経済学の始祖であるとともに道徳哲学者でもあった。「需要と供給の法則」は、他人の目を意識することで構築される公平な視点からの利己心に導かれた行動が社会的利益に貢献するという哲学に基づいて考えだされたものである。また、当時広がりつつあった、ニュートン力学の考え方にも大きな影響を受けていると言われている。

需要と供給の法則は非現実的である、という主張は妥当なのだろうか。目的に沿って考えればわかる通り、その質問は愚問である。需要と供給の法則は、人々が利己心に従って行動するならば資源は最適に配分できる、という社会改良アルゴリズムとして捉える方が適当なのである。

近年ダニエル・カーネマンノーベル経済学賞受賞を契機に、人間にはその物理的限界により多くの非合理的側面があるとする行動経済学の成果が広く知られるようになってきた。しかしこのことは、、経済学が間違っていることを意味しているのではない。人間がいかに自由に行動しようと物理的限界によって最適配分が妨げられてしまうということ、すなわち、アルゴリズムが有効に働かないケースが存在することを意味しているに過ぎない(逆に、科学技術の進歩により、脳にコンピュータが埋め込まれ、一瞬にして合理的な計算ができるようになれば、人間の持つ非合理性は減少しより経済学に近い世界になるかもしれない)。

もっと言うならば、アダム・スミスの時代に需要と供給の法則が示したような「市場」がどれほどあったのか、という疑問を持たねばならない。アダム・スミスが「市場」という概念を「発明」したことによって、人々は「市場」的な概念の成立する範囲を拡大することで大きな発展を遂げてきたのが事実なのであって、経済学は現に役に立ってきたのである。市場概念を放棄した共産主義国との発展の差を考えれば、それがいかに有効なアルゴリズムであったかは明らかだろう(そういう意味で経済学は科学というよりも工学的である)。

さて、とは言うものの世の中の非合理性がひどすぎて、経済学の理論が現実とはかけ離れすぎるならば(すなわち、アルゴリズムの適用範囲が狭すぎるならば)、批判されても仕方ないかもしれない。そこで、経済学の理論が現実にどれほど近いか、という実例を挙げたい。多くの人が予想する結論とは裏腹に「需要と供給の法則」は実際の人間を使った実験でも大変うまく動作するのである。

(需要と供給の法則を模倣した)口頭ダブル・オークション実験の結果を見たヴァーノン・スミスは衝撃を受けた。彼は需要と供給の法則に対して考えれれる限り最も強い反証を行おうとしたのだが、法則はマーシャルが思っていたよりいっそう強力に機能することを示す結果が出た。

(中略)

口頭ダブル・オークションで市場実験を追試し、同じ結果を得たのはヴァーノン・スミスだけではなかった。この実験は世界中で、考えられるありとあらゆる設定の下で、幅広くさまざまな被験者の集団に対して数えきれないほど何度も行われている。さらに、たくさんの経済学の授業で最初に行う演習の一つになった。非常に限られた例外を除いて、そうした実験市場は急速に競争均衡へと収束した。均衡に至る経路や収束する割合は実験ごとに異なっているかもしれないが、基本的な結果は実質的にいつも同じだ。時々、混乱した被験者や「非合理的な」被験者がいるが、結果にはほとんど影響を与えない。そうした人たちは市場の力に押し流されてしまう。

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経済学には雑音が多すぎる(その雑音が経済学者自身からもたらされることも多々ある)。だが、経済学という学問の持つ知見が、経済問題に対し人類が持ち得る最善なものであることは疑いない。否定することに力を傾けるよりも、活用することに力を傾けるべきであると思うがいかがだろうか。

実験経済学入門~完璧な金融市場への挑戦

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