震災と復興から経済を考える

震災により日本経済が大きなダメージを受けて以降、経済学界隈では復興の財源についての激しい議論が行われている。人によっては、こんな時にそのような議論は不謹慎である、と感じるかもしれない。しかしながら、経済学者に道徳や具体的な災害対策、代替エネルギー、復興策の中身について議論されても糞の役にも立たないことは請け合いであり、ミクロ経済学者であれば電力需給や配給マッチングに関するインセンティブ設計、マクロ経済学者であればいかに日本経済へのダメージを最低限に抑えながら大規模な復興費用を捻出するか、という専門分野を生かした復興支援は正しいことであると思う。

さて、しかしながらこの度の大規模な震災に対して経済学者から提案される財源案を見るに、本当にお前ら経済学者か? と思うような理解に苦しむものが散見される。もちろん、私も一介の経済学ファンに過ぎず、正しい認識に基づいて発言できているか甚だ疑問ではあるのだが、とりあえず私の理解を書きたいと思う。

復興のベースは成長会計に求めるべきである

経済問題を考えるとき、まず枠組みとして飯田泰之氏の名著「ゼロから学ぶ経済政策」にあるように経済政策は、成長、安定化、再分配の三つの軸を踏まえる必要がある。しばしば、経済学を基礎としない議論では、あらゆる政策が再分配として語られがちである。しかしながら、財政政策や金融政策がたとえ再分配に影響を与えるとしても、その主たる目的は需給ギャップの減少にある。需給ギャップが減少すれば人々の総所得が上がるため、トータルとしては損より特の方が多くなる。成長も同様である。政府が科学技術政策への支出を増やすとき、高学歴の学者達への補助金政策とだけ捉える人はいないだろう。

今回の震災では、多くの人が亡くなり、資本が破壊された。成長会計の基本的な理論によれば、経済成長は資本、労働力、知識から成る。このことからわかるように、日本経済においては、成長の源泉のうち二つが毀損したことになる。しかしながら、(不謹慎な言い方に聞こえるかもしれないが)労働力は特定の年代の方が亡くなったわけではないため「一人当たり」で見た場合大きな影響を与えないと考えられる。また、超長期的には資本は知識の結果生み出されるのであり、失われた資本さえ元に戻すことさえできれば最終的には経済への影響は軽微なものに留まるだろう(もちろん、今回の震災では津波による被害が大きいこともあり、原状回復すればよいとはいかないだろうが)。

復興の財源問題は、リフレ政策とは直接は関係ない

この復興財源問題では、そこでなされる提案が論者の直近の「失われた20年論争」での立ち位置を引き継いでいるように見えるため、「火事場泥棒」のように見えてしまうようにみえるのは、ある意味仕方のないことかもしれない。しかしながら、復興の財源問題は基本的には「失われた20年論争」とは関係ない。なぜなら、この震災ではすでに被害が出てしまっており、財政支出を行わねばならないことは確定的だからである。

現在、菅内閣で行われている議論で非常に問題だと思うのは、復興対策の総額が小さすぎることである。経済学者間で議論が行われていると言っても、それは財源をどこから捻出するかという議論であって、数十兆円規模の財政出動は前提である。予算の組み替え程度では、失われた資本を取り戻せず単に成長が失われるだけになってしまう。

さて、肝心の財源であるが、考え方としては基本的に「増税」「赤字国債」「貨幣供給」の三つしかない。厳密に言うならばこれに加え「積立金の取り崩し」や「国家保有資産の売却」を加えても良い。

積立金というものは本来、将来発生が予想される出来事に大して積み立てられるわけだから、原則取り崩してはいけない。しかしながら、現金不足の会社がまじめに積み立てて不渡りを出すのであればそれは大変馬鹿げているわけで、積立金の目的を考えた上で積み立て過ぎだと思われるのであれば、取り崩すのも良いだろう。しかしながら、年金の積立金などは給付水準を引き下げるつもりがないならば取り崩すわけにもいかないだろう(本当にデフォルトが起きそうだというならば別であるが)。国家保有資産の売却に関しても、日本は先進各国と比べ所有資産が多いことを考えるとこれを機に身軽になってもよいだろう。「積立金の取り崩し」や「国家保有資産の売却」は景気に対し中立であり、可能であれば悪い方法ではない。とはいえ、それで数十兆円規模の財源を捻出するのは難しいのではなかろうか(……これがあっさり出てきそうな気もしなくもないところが日本の官僚主義の困ったところではあるが)。

経済への悪影響が少ない方法を選べ

しばしば、このまま赤字国債を出し続ければ国家が破綻するという人がいる。もちろん、それは事実であるが、その前提に大きな勘違いがあると思う。問題なのは、国家が破綻するほど赤字国債を出さなければならない状況にあるということであって、財政赤字そのものではない。

ハイパーインフレも同様である。実体経済の危機があり、その結果として政府が財政支出をインフレ税に頼らざるを得なくなったからこそハイパーインフレが予期され発生するのであって、実体経済になんら問題がないにも関わらず突然ハイパーインフレが発生し破綻するわけではない。

増税にも同様の問題がある。デフォルトにも高インフレにもならないなら所得の80%が税金で持っていかれたとしても正常な経済状況と言えるだろうか。おそらく、あまりの重税に生活は困窮し国内経済は実質的に破綻しているだろう。

増税」であっても「赤字国債」であっても「貨幣供給」であっても、行き着くところまで行き着けば国家破綻するのであって、「増税」ならば破綻しないし「赤字国債」ならば破綻するという話ではないのである。

このように考えると復興財源の選択は「いかに景気に悪影響を与えないように大規模な財源を確保するか」ということを勝利条件として設定せねばならないことがわかるだろう。

財源はインフレ税と自然増収でカバーせよ

復興の財源問題はリフレ政策とは直接関係ない、と書いた。しかしながら「いかに景気に悪影響を与えないように」という問題設定をする以上、間接的に関係してくることになる。その時問題になるのは、需給ギャップの有無である。通常、震災は資本を破壊するわけだから供給不足を有みインフレを起こすと思われがちである。この震災により需給ギャップが縮まるのであれば、デフレは終わりむしろ悪性インフレを心配しなければならないし、結果的に景気は回復に向かう可能性すらある。

しかしながら、どうも震災発生後のショックはむしろ需要ショックの方が大きいという話もあり、また現実的にも電力不足や震災による自粛ムードが需要を大きく抑制しているように見受けられる。また、震災から一ヶ月が経ちエコノミストOECDによる見通しも公表され始めたが、むしろデフレが深化する可能性の方が高いようである。また、供給ショックは結果として需要ショックを引き起こすため、例えインフレになっても金融政策は中立あるいは緩和気味にすべきであるというのもケインジアンの標準的見解でもある。

デフレが続く以上、長期的なインフレ目標を2%とするならば、その分のインフレ税を使うことができる。また、需給ギャップがあるということは、結果として景気が回復し自然増収も見込むことができる。もちろん、今回の震災で必要となる復興資金は莫大であり、それだけでは不十分かもしれない。しかしながら、それはインフレ税と自然増収では足りないことが明らかになってからでも遅くはない。まず、大規模な国債発行を行い、短期的には国債の直接引き受けあるいは市中からの買い切りオペによるインフレ税で、中期的には景気回復による自然増収で対応し、それでも足りなければ増税赤字国債でまかなえばよい。

増税赤字国債で賄うべきかは、現役世代が賄うか将来世代が賄うかという違いがあるが、現役世代の時代の景気低迷は、親世代の失業や貧困を通して将来世代の厚生を引き下げる。赤字国債の発行が将来世代の負担になるかは自明ではない(古典的な意味での公債負担論の議論を復活させるべきだろう)。また、震災が100年に一度の出来事ならば、50年程度の期間をかけて少しずつ返していくべきである、という意見ももっともであると思う。

少なくとも、増税は今現在の経済状況に悪影響を与える。今、議論されているように消費税増税で賄われれば、消費や生産に悪影響を及ぼす。特に景気弾力性の高い法人税収は結果として減る可能性が高い。もし消費税を増税するのであれば、それは一般財源として長期的な税制の中で議論すべきであり、復興とは切り離すべきであろう。一時的な増税を考えるのであれば、所得税率の上限引き上げ、相続税増税など高所得者増税を考慮に入れた方がよいだろう。

どちらにしろ、誰が負担すべきかは主義主張もあり結論の出すのが難しい問題でもある。まずは主義主張によらず正当化可能なインフレ税によるデフレ脱却と自然増収にフォーカスを当てるべきであると考える。