分配問題についての個人的見解
最近、生活保護の問題が世間を騒がせており、特に片山さつきはキ○○イだと思うが、日本人の醜さを露呈させる結果になっている。さておき、一方の左な方々も小宮山厚労相の生活保護費削減ばかりに怒りをぶつけ過去、保護費の水準ばかりを問題にしてきたため保護水準だけが上がっていく一方、捕捉率はまったく改善せず、生活保護費の総額としては(冷たい国の代表とされる)アメリカに遠く及ばない現状にあることにはほとんど言及されず、呆れるばかりである。
過去に何度か言及したように分配問題は経済学では扱いにくい問題であり、なかなかこれといった結論は得られないものの、このように考えるべきであろう、という点についてはあくまでも個人的見解ながらもまとまりつつある。おそらく、ここで述べるような議論は哲学の分野ではいつか来た道であろうけれども、読むと眠くなりあまり勉強する気になれないので特に触れるつもりはない。
まず、分配問題を考える上で誰が分配されると想定され得るかと考えれば「働けない人」、「働いてるけど貧乏な人」が対象になるだろう。分配する側はどうかと言えば、資源は有限であり財・サービスが湧いてくるわけではない以上、平均より裕福な人々であろうことは疑いない。
ネットで左な方の主張を聞いていて理解しがたいのは、まるで「働かなくても良い」という選択肢があるかのように語る人がいることである。言うまでもなく、資源は有限であり財・サービスが湧いてくるわけではない(重要なことなので二度言いました)ので、誰も働かなければ全員死に絶えるしかなく、また「働かない=他者から資源を奪っている」ことにもある。基本的に労働することは人間が社会で生きていくためには当然必要な営みである(ただし、私の考える労働とは財・サービスを生み出すことである。そのためマルクス主義的な資本家批判には繋がらない。彼らは資本を提供することである種のサービスを営んでいるのだ)。
この前提で考えるならば、「働けない人」は、社会的義務を果たしていないことになるし、「働いてるけど貧乏な人」は自分を養えるほどには十分に財・サービスを生産できていない状態にあると言える。彼らは、無慈悲に切り捨てられるべきであろうか。
いや、そうではない。分配問題は基本的にはある種の保険制度として考えるべきである。バブル前後を見ればわかるように、ある時非常に裕福であった人が、借金まみれになり貧困のどん底に陥ることもあれば、イケメン・リア充が事故で二目と見られない姿になってしまうこともある。平凡な家庭であっても、ひと度障害を持つ子供を抱えれば苦しい生活を強いられるかもしれない。
このような個々人にランダムに振りかかる問題であっても、国家全体をおしなべて見れば一定の確率で発生するのであるから、政府は保険として生活を襲う波を平準化することによって、国民全体の厚生を高めることができるのである。もちろん、どのような水準で保険を提供すべきであるかは議論を要することだろう(個人的には、政府がGDP比によるシーリングを通じて水準を明確化するべきであると考える)が、なぜ生活保護のような分配が必要なのかについて枠組みを持つことは重要だろう。
なお、分配が必要な理由として以下も考えられるが、金持ち側に分配するインセンティブが希薄だと思えたのであえて取り上げなかった。