「善玉」不平等と「悪玉」不平等

先日、「不平等について―― 経済学と統計が語る26の話」という書籍を読んだわけですが、この本ではグローバルな格差を中心として語られており、個人的感心とは微妙にずれていたというのが正直なところ。ただ、いくつか興味深い観点もあったので、紹介したいと思います。

不平等になればなるほど、国の成長は速まるのだろうが、それとも遅れるのだろうか。歴史的に見ると、かつては単純に不平等は成長にとって望ましいとされていたが、徐々にその正反対を支持するより繊細な見解がとられるようになってきた。

なぜそうなったのか。これを理解するために、経済効率という側面における不平等をコレステロールとみなしてみよう。善玉コレステロールと悪玉コレステロールがあるように、「善玉」の不平等と「悪玉」の不平等があるのだ。「善玉」不平等は、人々のやる気をかき立てて、勉学や勤勉、リスクを伴う起業などに向かわせるために必要である。……一方、不平等が抜きん出るようとするインセンティブを与えるのではなく、既得の地位を維持するための手段を与えるとき、厳密な定義は難しいが、不平等は「悪玉」となる。

……インセンティブに必要な「善玉」と、富裕層の独占を保証する「悪玉」の、いずれの不平等が優勢であるかによって、その国と時代の不平等は有益にも有害にもなり得るのである。

もっともな話ではないでしょうか。特にこの「善玉/悪玉」という例えが良い。「良い不平等、悪い不平等」と書いてしまうと、完全に二分される不平等概念があるかのように聞こえてしまいますが、「善玉/悪玉」と書くと不平等には二つの側面があるという点がより強調されて聞こえるような気がします。例えば、著作権を例に挙げると、著者に独占的地位を与えるという意味で「悪玉」的あると同時に、創作にインセンティブをもたらすという意味で「善玉」的でもある。著作権が結果的に「善玉」になるのか「悪玉」になるのかは、その効果の度合いによることになります。

私が格差について語る時、現在の世論的にはどうしても「悪玉」的な側面がベースとなるため、「善玉」的な言説を強調してしまいがちであったかもしれません。今後は、もう少し注意して述べる必要があるな、と反省する次第です。

なお、誤解を招かないように書いておきたいと思いますが、著者は「悪玉」もない代わりに「善玉」もないような状況、すなわち共産主義国にみられた「所得の不合理な平準化」に関しても「社会主義の停滞と崩壊の主な原因」であるとし、その理由が後節で詳細に述べられていることを付け加えておきます。

不平等について―― 経済学と統計が語る26の話

不平等について―― 経済学と統計が語る26の話