歴史が解釈であるならば

東郷和彦著「歴史と外交─靖国・アジア・東京裁判 (講談社現代新書)」という本を読む。通常であればこの手の本は(苦手なので)スルーするのだが、佐藤優氏の「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」の中で高い評価をされていた人の書物だったので、珍しく興味を持って読んだ。

内容的に関心は高いが微妙な話題が多く、何をするかではなく「何をしないか」が重視される外交官らしい物言いは、書物としてみた場合、なんとも面白みがかける。これを読むと、佐藤優氏の本がいかにぶっちゃけ話満載だったのかよくわかるというもの。

ただ、一箇所、是非はともかく、はっとした文章があったので少し長いが引用する。

 慰安婦セッションが終わってコーヒー・ブレイクになってから、議論に参加したひとりが私を脇に呼んで、こう言った。

トーゴーさん、あなたは納得できないかもしれない。しかし、いまのアメリカ社会における、性(ジェンダー)の問題は、過去十年、二十年前とはまったくちがった問題になっている。

 婦人の尊厳と権利を踏みにじることについては、過去のことであれ、現在のことであれ、少しでもこれを正当化しようとしたら、文字どおり社会から総反撃を受けることになる。少し前までは、外国に駐留する米軍兵士が、現地の売春宿に行くことを咎めることはなかったのに、いまは、司令官がきつくこれを禁止する時代になっている。

 要するに、慰安婦の問題を考えるとき、多くのアメリカ人は、いま現在、自分の娘がそういう立場に立たされたらどうかということを本能的に考える。ましてや、それが、少しでも『甘言によって』つまり『だまされて』つれてこられ、そのあと、実際に拒否することができなかったというのであれば、あとは、もう聞く耳もたずに、ひどい話だということになる。

 あなたが言われるように、そういう甘言でもって強制された人は全員ではなかったかもしれないし、軍の本旨としてはそういう事態を抑制したかったとしても、それが徹底して厳密に抑止できなかった以上、結果責任はまぬがれないということになる。

 自分は、これは非歴史的(ahistorical)すなわち、六十年前の視点でものを見ているのではなく、現在の視点でものを見た議論と言ってもよいと思っている。『それはひどいではないか』と言っても、それがいまのアメリカをはじめとする世界の圧倒的な大勢である。

 あなたが、安部総理や河野談話の立場を説明し、それを守ろうとすることには、それなりの敬意を払うが、日本全体が、いま私が述べたアメリカ社会の現状を知ったうえで、議論しているのだろうか」

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たしかに歴史的事実が事実に他ならないとしても、そのことを評価するのが現代人である以上、事の善悪が現在の視点で評価されるのは当然のことなのかもしれない。

ある意味、慰安婦問題の罪はこの問題を放置し続けた、あるいは戦力の逐次投入に堕してしまった日本政府にあるとも言える。日本政府が慰安婦に対し行う賠償には根拠がないという言説をしばしば聴くが、日本政府の不作為の罪が問題を悪化させたのであるならば、その代償が高くついたとしても致し方ないのではなかろうか。