飯田泰之著「ゼロから学ぶ経済政策」を読む

ゼロから学ぶ経済政策

「読む」と言っても実際に読んだのは昨年末のこと。書評を書こうと意気込んでみたもののずっと書けずにいた。その理由はなんと言っても

名著すぎる!

ことにある。これに並ぶ本は「クルーグマン教授の経済入門」くらいだろうか。クソゲーでもなんでもそうだが、問題だと思うことはすぐに目に付くが、面白い、すごい、と思ったことを文章化するのは非常に難しい、というわけで書くのがずいぶん遅れてしまった次第。

さて、本書であるが、経済学の入門書と言うと、どうしても需要と供給や比較優位、GDPの説明に終始してしまうか、歴史に基礎を置きアダム・スミスからフリードマン辺りまでを説明する内容になりがちである。しかし経済の入門書において最も重要なのは、そのエッセンス、もう少しわかりやすく言うのであれば経済問題に直面した際の切り口に使えるか否かということだろう。

近年、TPPに関する議論が起こっているが、TPPを考える際「貿易自由化は消費者の利益になる」という常識が抑えられていなければ、肯定するにしろ否定するにしろまったく意味のない議論になってしまうだろう。また、「税とは何か」で書いたように税というものを一方的な国家による搾取としか理解できなければ、単なるルサンチマンの吐露にしかならない。経営者ならば、産業政策という概念の無意味さを知ることで、政治家に期待すべき政策を変えるかもしれない。

経済学が持っている基本的な考え方を理解していないと、社会問題に対する視点が大きく間違ってしまうのである。

本書では、経済政策を「成長」「安定化」「再分配」という切り口で解説している。「資本」「労働力」「技術」によって生産力の上限=潜在水準が決まり(成長)、その潜在水準を十分に発揮させるために不況の克服を行い(安定化)、そこで顕在化した生産物を誰がどの程度得るべきなのか(再分配)という整理は、現実の経済問題を考える上では大変役に立つ切り口であるし、ひと昔前までの経済学者が持っていた標準的な見方であると思う。

さらに、幸福の経済学、行動経済学の成果も取り入れ、非常に総覧的な内容になっていることもすばらしい点だと思う。「経済学者は『お金さえあれば幸せ』なんて話はしていない」と言いつつ、経済学者の口から、たまにそれが疑わしく思わざるを得ない発言を聞くこともある。多くの人は、経済学者に不信感を抱いていることを考えると、むしろそれらの成果を積極的に取り扱いつつ「それでも経済学はここまでは説明できるんですよ」ということを説明し、経済学の基本スタンスを明確にすることは重要なことだろう。

唯一欠けている点は、世界の視点である(まったくないわけではないけれど)。Amazonの書評を見る限り、市井の人々にとって、「経済=グローバル」という認識があるようで、経済政策の本なのに世界を見据える視点がない、と感じた方も多いようだ。本書の前に「クルーグマン教授の経済入門」や「良い経済学 悪い経済学」をまず読み、国内編の位置付けとして読まれるのもよいのかもしれない。

新書と言うには、内容がてんこ盛りすぎる感は否めないが、経済学のエッセンスを誤解なく伝えるにはこの程度の分量はどうしても必要であろうと思う*1

今まで経済政策に関して手軽に安心しておすすめできる本がなかったのだが、これからはこの本を勧めることができる。ぜひ多くの方に読んでいただきたい。

以下、各章に対する感想をば。

第一章 幸福を目指すための経済政策

幸福から導入部が始まる経済学入門書というのは大変珍しく、個人的にすごく押したいポイントだ。最近、(著者の飯田先生とも対談しているが)哲学者の萱野稔人氏が「社会的承認」の欠如に基づきベーシックインカムを批判しているのをよく聴く*2。この「社会的承認」は、幸福の経済学においても「所得の低下を考慮しても説明できない幸福感の低下がある」という形でその正当性を主張できる。萱野氏自身も水野某と組んでみたりと、どうにも反経済学の方面に走りがちである。哲学者が興味ありそうなトピックでも面白い結果が得られているんだよ、ということを理解してもらうことで、反経済学に走る人が少しでも減ればよいと思う。

ただ、一点疑問なのは、幸福度と所得の関係である。フライらの本でも説明されていたように、発展途上国では相関が高い一方、先進国では説明力はかなり落ちる。日本は先進国であり、なおかつ幸福度は比較的低い国として図中にも表示されている以上、幸福度と所得の相関が高いから問題なし、ちゃんちゃん、というわけには本来いかない。衣食住に満足すれば、お金が相対的にあまり重要でなくなってくるのは納得できる話でもある。もちろん本書は入門書であり、そこまで立ち入るべきではないのだが、なぜ日本は所得が高いのに幸福度が低いのか、というより細やかな議論が必要なのだろうと思う。

第二章 経済成長、第三章 安定化政策

さきほど「ひと昔前までの経済学者が持っていた」と書いたのには、現在の経済学者でも経済成長と安定化の二分法が通用するのだろうかという疑問があるからだ。(私自身は、この二分法は今でも有効であるし現在の不況もこの切り口で見た方がよいと思っているが)リフレ政策を批判する経済学者はこのケインズ的な発想を良しとしていないふしがある。

よく聴かれるのが、少子化による労働者人口の低下や様々な構造改革の遅れ、積み上がった財政赤字など将来の成長率の低下を予想される様々な要素が現在の消費を低下させ需給ギャップを生じさせるという話だ(おそらく、近々構造的失業者数の増加がこの理由に加えられるだろう)。この前提では、安定化政策というものは成長に従属するものにすぎないという解釈になる。このような解釈は、特に最先端の研究を行なっている日本の学者に多いように思う。

私はそのような理由が現在の景気悪化の決定的要因だとは考えていないけれども、現代の経済学者の主張と教科書的な主張の分裂は、私のような素人には非常に困った問題となる。

よく相対性理論によって古典力学は否定されたとする人がいるが、実際には、相対性理論古典力学を包含している。これは量子論古典力学の関係においても同様だ。物理学の世界においては、様々なパッチワークがきちんと繋がりを持って存在し、それぞれの適用範囲は明確である。だからこそ、工学者や素人が古典力学を元に何かを語っても問題は起こらない。しかし、現代の経済学が置かれている状況はそうではない。ノーフリーランチに基づいてバーナンキ背理法を語ると、プロの経済学者からお叱りをいただくのが実情なのだ。

個人的には、教科書的な経済学の枠組みは切れ味するどく、また、現実の政策を理解する上でも有益であると感じているので、積極的に擁護すべきであると考えている。安心して擁護できる時代が来ることを願っている。

話は変わるが、安定化政策の章では「近年の研究では、一国全体というマクロなレベルでは景気が安定していたほうが経済効率は高いという結果に加えて、国内の産業間の収益率の差が大きいほど経済成長率はさらに高くなることが明らかにされています」というシュンペーターの創造的破壊のマクロでの適用を否定しつつ、有意義な概念として復活させるこの話は目からウロコでした。

第四章 再分配政策

経済学にとって最善の理念が打ち出しにくく鬼門と言ってもよい再分配であるが、本書では「自由主義」と「温情主義」すなわち効率と公平の対立から「ナッジ」で話題になった「リバタリアンパターナリズム」と安易な温情主義の問題点の話に移る。

解説としては非常に優れているのであるが、個人的にはこの内容で満足したくないという思いがある。最近、小塩隆士著「再分配の厚生分析」を読んだことがきっかけなのだが、もっと経済学は再分配を語れるのではないだろうか、という考えが強まっている。

今年は、サンデルの公開講義が流行ったこともあり、生まれて初めて政治哲学に興味を持ち数冊読んでみたのだが、結果これでは駄目だ、という否定的感触を持ってしまった。ひとつには現在の政治哲学が科学的基礎を持たないことである(ロールズ原理が良く、功利主義がダメとかコミュニタリアリズムはリベラリズムより良いことが個人の直観以外を基礎にして判断できるだろうか?)。我々は時間軸の上で生きているのであり、必ずどのような政策をすべきか決断しなければならない(決断をしないという決断も含め)。結果としてリバタリアン的政策を20%、リベラル的政策を50%、コミュ的政策を30%のような様々な思想が混在した政策が取られることは容易に想像できるが、ではどのような政策が取られるべきであろうか。政治哲学は、矛盾のない様々な政治思想の類型を示すという意味では有益だが、ではどれを選ぶべきかに関する指針は何ら示してくれない。

再分配の厚生分析」では、ひとつの手法として、効用関数にリスク回避や不平等回避を含めることで効率と公平の最適解を求めるという案が提示されている。この方法がベストだと言うつもりはまったくないが、新しい方向性を示しているのは確かである。政府が国民全体の代表である以上、本来特定の思想に依拠して政策が行われることは望ましくない。であれば、人々の行動を観測して再分配の在り方を決定するというのも次善策としては良いのではなかろうか。

クルーグマン教授の経済入門 (日経ビジネス人文庫)

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再分配の厚生分析  公平と効率を問う

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実践 行動経済学

実践 行動経済学

*1:個人的には、新しい事実を人に伝える際には、1章1トピックくらいに抑え、同じ主張を手を変え品を変え繰り返す必要があるのではないか、という感覚を持っている。

*2:個人的には、社会的承認なんて国が国民に提供すべきものなのだろうか、という点で疑問があるのだが。