鈴木謙介著「“反転”するグローバリゼーション」を読む

チャーリーこと鈴木謙介氏のLIFEでの姿しか知らないことに気付き、いったいどういう考えを持っている人なのか一回くらい著書を読んでみようと買ってきた。

結論から言うと、私にとって社会学は生理的に受け付けない、ということがわかった(おい)

社会学の本は、稲葉先生の本(教養、マルクス社会学入門)と「ヤバい社会学」くらいしか読んでないので社会学一般はそうではないのかもしれないが(社会学入門にも共通的な基盤がないと書かれていたし)、昔、哲学についてちょっとかじってみた時に感じた「どうでもいいことを語っている感」を同書にも感じてしまう。

稲葉先生の「社会学入門」には、経済学っぽくなっちゃいかんのだよ、と書かれており、まぁ学問としてのアイデンティティを保つには仕方ないよな、とも思ったが、「<反転>するグローバリゼーション」のような方向性なのだとしたら社会学は私にとっては不要なものだと言い切れてしまう。

内容的には決して不真面目なものではない。経済学的な議論についても正しく書かれている。中に記載されている個々の内容には面白く感じる議論もある。LIFEで見せるおちゃらけた姿は微塵も感じさせない。しかし、どうしてもその書き方には拒否感を覚えてしまう。

特に拒否感を覚えるのが、著者の主張とか目的がよくわからないところだ。ある論点に対しいくつかの議論があり、そのうちいくつかの議論は問題があり却下できる、というところまでは語ってもその以上は何も語られない。この本を読んでも鈴木謙介という学者が何を言いたいのか、また、何を目的としたいのか、よくわからないのである。

工学であれば役に立つものを作るのが目的であるし、自然科学であれば自然の法則性を明らかにすること、経済学であれば資源の最適配分あるいは経済原理を明らかにする、といった目的があると思う。著者が直接的にそれを示さなくとも、学問の目的が明らかであれば理解しやすい。

さて、社会学の目的は何なのだろうか。「ヤバい社会学」を読んだ時の印象からすると、コミュニティ版経済学とでもいうべき、ある特定の集団の行動原理を明らかにすること、であるようにも思えたが、少なくとも、この「<反転>するグローバリゼーション」は違うようだ。

あとがきで著者は

現場と理論とを往還するということは、とりもなおさず、「結論はこれしかり得ない」といった風には、理論的に美しく割り切ることのできない、現場の困難や醜さを理解し、逡巡することであり、そのことを受け入れながら、中庸な解決の道を探ることにほかならない。

と、書いているが、そもそも解決すべき問題すら明確に定まっていないように思えてならない。解決すべき問題すら本書の議論の対象なのだとしたら、いったい何を目的とすればよいのか。

本来であれば、本書のテーマであるグローバリゼーションについて評価すべきであろうが、著者の見解が何も感じられないのだから、それを書くこともできない。

サーベイとしては力作であると感じるし、著者の能力も新進気鋭と呼ばれるにたるものだと感じるが故に、この本のスタイルは非常に残念である。

“反転”するグローバリゼーション

“反転”するグローバリゼーション

フォース・カインドを見る

急に映画が見たくなったので、映画館のあらすじだけ読んで、まぁいいかとフォース・カインドという映画を見ることにした。

前評判なしで行ったので、どういう映画か知らずに行ったのだけど、ブレア・ウィッチ以降はやっているフェイク・ドキュメンタリー形式の映画だった。さすがに同じ方式だとありきたりになりつつあるので、ドキュメンタリー+再現映画、監督と本人との対談を混ぜながらの展開はなかなか良く考えられている。

……が、しかし内容が宇宙人のアブダクションものだとわかった瞬間に見たことを後悔してしまった。宇宙人ものなんて、今更ジョーク・ネタにしかならないぜよ。隣の客なんて失笑してるし。

シュメール語は文字でしか現存してないと言ってるのに、なぜ宇宙人がシュメール語でしゃべっているとわかるのか、とか、今日び心理学者は催眠療法なんてやらんぜよ、とかフェイク・ドキュメンタリーとしては致命的な問題が散見されるのも難点。

これだったら、「かいじゅうたちのいるところ」でも見たほうがよかったなぁ。

サッチャー

森田浩之によれば、「社会は存在しない」というサッチャーの言葉は、雑誌のインタビューの中で発せられたものであるが、往々にして「社会の道徳などというものは存在しないので、個人が好き勝手に生きればいい」というふうに誤読されてきたという(森田[1998])。だが森田は、サッチャーの発言が掲載された『Women's Own』(一九八七年一○月三一日号)の発言内容は以下のようなものであったと述べる。

「われわれは、あまりにも多くの人が『もし問題があれば、政府がこれに対処すべきだ』と考える時代を生きている、と私は思う。『私が困難に陥れば、助けてもらえる』。『私はホームレスだ。だから、政府は私に住む場所を与えてくれる』。彼らは、彼らの問題を社会のせいにする。しかし、社会なんてものは存在しない。あるのは、個々の男であり、女であり、家族である。どんな政府も個人を通さないかぎり、何もすることはできない。そして、人々はまず最初に自分の面倒を見なければならない。まず、われわれ自身の面倒を身、そして次に隣人のことに気をつけるのが、われわれの義務である。人々は、義務を果たさないのに、あまりにも多くの権利があると思っている。もし最初に義務を果たさなければ、権利なんてものはない」(ibid:17-18)。

http://www.amazon.co.jp/dp/4757141564

サッチャーかっちょえー。こりゃ、しびれるわな。惚れた。

鈴木謙介著「サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権批判が若者を追い込む (ちくま新書)」を読む

先日読んだ「“反転”するグローバリゼーション」は、専門書っぽい雰囲気もあったのでそれがよくなかったのかもしれぬ、と思いなおし「サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権批判が若者を追い込む (ちくま新書)」を読んでみた。

グローバリゼーション本とは異なり、きちんと主張や目的も述べられずいぶんわかりやすい本になっている。グローバリゼーション本は単に出来が悪かっただけかもしれない。

しかし、この本を読むと、なんで鈴木謙介氏が「今の状況ていうのは不況じゃないんだ、構造変動なんだ」などと発言したのかよくわからなくなってきた。少なくともこの本で著者が述べていることは、あくまで不況によって生じた社会の構造変動についてであり、そして、そこで記述される事実認識は極めて正しい。

たとえ、不況が日銀による本当にしようもない失策から始まろうとも、それによって発生する不況は国民の経済状況に多大なダメージを与える以上、不況により人々の思想や行動がどのような影響を受けたのか分析することは社会学者に求められていることであろうし、特に違和感はない。

しかしながら、氏曰く、「世界の産業構造の変動に対するキャッチアップが遅れていることを、ここでは問題にしています」とのことであるが、その認識はどう考えても事実ではない*1と思われるので、認識を改める方がよろしいように思う。

*1:日本経済についての議論の中では、Hayashi・Prescott論文から始まるTFP低下を原因とする見解に近いと思われるが、ここにある通り現在では否定されていると考えるべきであろう。