ミクロバカの壁

中谷巌氏のインタビューやら榊原英資氏の「間違いだらけの経済政策」を軽く読んで感じることは、単に経済学に無知であることが問題なのではなく、徹底的にミクロバカであることに問題があるのではないか、という気がしてきた。

小島寛之氏にしてもそうだが、なぜかマクロ経済学の成果に関してはまるでなかったかのように、そして、経済学にはミクロ経済学しかないかのように取り扱うのはなぜだろうか。もちろん、最終的にはマクロ経済学ミクロ経済学に統合されてしまうかもしれない。しかしながら、それはマクロ経済学でのみ説明できていた現象をミクロ経済学で説明できるようになっただけで、マクロ経済学が間違っていたことを意味するわけではない。

マクロ経済学で説明できていた現象をミクロ経済学で説明できないのだから、ミッシングリンクを抱えているのはミクロ経済学側にあるはずなのに、あえてミクロ経済学だけで不況を語ろうという姿勢は、論文ならばともかく社会に向けての経済学者のメッセージとしてはふさわしくなかろう。

話はずれるが、中谷巌氏の懺悔を読むと、なぜそんな中学生が悩みそうな話題に今頃頭を悩ませているのか私には理解不能だ。市場原理は有効であるが万能ではないなんて、当たり前の話だろ? 中谷巌氏の脳内経済学には、情報の不完全性や非対称性の議論など存在しないのであろうか。

本当に日本の経済学者にはあきれることばかりだ(まぁ、榊原氏は経済学者とは呼び難いが)。

[追記] 竹森俊平氏の「資本主義は嫌いですか―それでもマネーは世界を動かす」を今頃読み始めたのだが、面白い記述を見つけた。

いま、ある経済学者が、「経済自由主義」の立場を取り、しかも(フランク・)ナイトとは違って、資本主義の問題点には目を向けず、ひたすらその良い点ばかり注目していたとしよう。たとえば、その経済学者は、金融システムについて、規制のない市場では、貸し出しが拡張し、経済成長率を高めるといった側面だけに注目して、損失を他にかぶせることができる金融機関が、公的規制の緩い市場では貸し出しの質を極端に悪化させるといった危険は無視したとする。その場合、その経済学者の「経済自由主義」は「熱狂的(ファナティック)」なものになるかもしれない。そのため彼は、金融規制の緩和こそが改革だといった威勢のよいことを公言できるかもしれない。しかし同時にその経済学者の考え方は、もろいものとなるだろう。つまり、資本主義の問題点をこの経済学者が何も考えていなかったために、資本主義の重大な欠陥、たとえばサブプライム危機のようなものが発生した途端に、その経済学者の資本主義に対する「信仰」は崩れ去るだろう。

金融規制の緩和を市場の自由化と読み替えれば、あら不思議(www 中谷巌氏の転向は竹森氏によって見事に予言されていたようだ。

バーナンキの評価

小生の狭い知見の範囲ではあるが、米国のブログ界ではバーナンキに批判的な空気が徐々に広まり、むしろ日本のブロガーの方がバーナンキを支持しているように見える、という現在の状況は、奇妙といえば奇妙である。

FRBは産業政策をしているのか? - himaginary’s diary

今回の恐慌を考えれば、リーマンショックが引き金を引いたことは疑いなく、その意味でバーナンキへの批判的空気は致し方ないのではないだろうか。現実的には、あの状況下でリーマンを破綻させないという選択ができたとは思えず、誰がFRB議長であってもこの結果は変わらなかっただろうが。

世界最悪の中央銀行を持つ日本の低い期待値と、世界最強の中央銀行を持つ目の超えたアメリカ人の期待値とでは、感覚の違いがあるのかな、と。

いや、どうせなら無能なバーナンキにはFRB議長を辞任してもらって、日本銀行総裁の地位に甘んじてもらうというのはいかがだろうか(w

フルシチョフ面白い

こんな話もある。ソビエト連邦の元首だったニキータ・フルシチョフ。冷戦時代を象徴する恐ろしい人物である。国連の会議で靴を脱ぎ、その靴でテーブルを叩くという行動をとるような人物だ。その彼は自由化を推進するため、故スターリンの独裁者ぶりを痛烈に批判した。スターリンが行った残虐行為を世界に向け次々と暴露していったのだ。



 その彼がアメリカで記者会見をしたことがある。予めリストにして提出されていた最初の質問が読み上げられたのだが、これがなかなか辛らつなものだった。「あなたは、激しくスターリンを批判した。しかし、あなたはスターリンの親しい後輩だったではないか。スターリンの存命中、あなたは一体何をしていたのか」というのだ。



 フルシチョフは怒った。「だれがその質問をしたんだ!」。普段は口やかましい記者たちが、珍しく沈黙した。シーンとなった会場を見渡し、彼が再び吼える。「その質問を書いたのは、一体だれだと聞いているんだ!」。長い静寂のときが流れた。そこでやおら、フルシチョフはこう言った。「私が当時やったのは、これです。今のような沈黙です」。

本当のことを言う(4ページ目) | 日経 xTECH(クロステック)

まさにロシアンジョーク。

歴史が解釈であるならば

東郷和彦著「歴史と外交─靖国・アジア・東京裁判 (講談社現代新書)」という本を読む。通常であればこの手の本は(苦手なので)スルーするのだが、佐藤優氏の「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」の中で高い評価をされていた人の書物だったので、珍しく興味を持って読んだ。

内容的に関心は高いが微妙な話題が多く、何をするかではなく「何をしないか」が重視される外交官らしい物言いは、書物としてみた場合、なんとも面白みがかける。これを読むと、佐藤優氏の本がいかにぶっちゃけ話満載だったのかよくわかるというもの。

ただ、一箇所、是非はともかく、はっとした文章があったので少し長いが引用する。

 慰安婦セッションが終わってコーヒー・ブレイクになってから、議論に参加したひとりが私を脇に呼んで、こう言った。

トーゴーさん、あなたは納得できないかもしれない。しかし、いまのアメリカ社会における、性(ジェンダー)の問題は、過去十年、二十年前とはまったくちがった問題になっている。

 婦人の尊厳と権利を踏みにじることについては、過去のことであれ、現在のことであれ、少しでもこれを正当化しようとしたら、文字どおり社会から総反撃を受けることになる。少し前までは、外国に駐留する米軍兵士が、現地の売春宿に行くことを咎めることはなかったのに、いまは、司令官がきつくこれを禁止する時代になっている。

 要するに、慰安婦の問題を考えるとき、多くのアメリカ人は、いま現在、自分の娘がそういう立場に立たされたらどうかということを本能的に考える。ましてや、それが、少しでも『甘言によって』つまり『だまされて』つれてこられ、そのあと、実際に拒否することができなかったというのであれば、あとは、もう聞く耳もたずに、ひどい話だということになる。

 あなたが言われるように、そういう甘言でもって強制された人は全員ではなかったかもしれないし、軍の本旨としてはそういう事態を抑制したかったとしても、それが徹底して厳密に抑止できなかった以上、結果責任はまぬがれないということになる。

 自分は、これは非歴史的(ahistorical)すなわち、六十年前の視点でものを見ているのではなく、現在の視点でものを見た議論と言ってもよいと思っている。『それはひどいではないか』と言っても、それがいまのアメリカをはじめとする世界の圧倒的な大勢である。

 あなたが、安部総理や河野談話の立場を説明し、それを守ろうとすることには、それなりの敬意を払うが、日本全体が、いま私が述べたアメリカ社会の現状を知ったうえで、議論しているのだろうか」

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たしかに歴史的事実が事実に他ならないとしても、そのことを評価するのが現代人である以上、事の善悪が現在の視点で評価されるのは当然のことなのかもしれない。

ある意味、慰安婦問題の罪はこの問題を放置し続けた、あるいは戦力の逐次投入に堕してしまった日本政府にあるとも言える。日本政府が慰安婦に対し行う賠償には根拠がないという言説をしばしば聴くが、日本政府の不作為の罪が問題を悪化させたのであるならば、その代償が高くついたとしても致し方ないのではなかろうか。